三津屋古墳の石室
2019.6.30 三津屋古墳の石室 この古墳の横穴式石室は復元ではなく、石を抜き取られた跡をそのままにして盛土の版築のような工法が見えるようになっていました。 版築もどき(?)の土層...
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2019.7.1 平野塚穴山古墳 最近は新しい発見が続いているようで、先日は「奈良県香芝市の国史跡・平野塚穴山(ひらのつかあなやま)古墳(7世紀後半)で、古墳の斜面に凝灰岩の石材が張り巡らされていたことが分かった」という記事がありました。...
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2019.7.4 平野塚穴山古墳の被葬者は誰か?2 高市皇子の「三立岡墓」とは牧野古墳のことなのかな?と写真を確かめてみると、 牧野古墳 この古墳は、奈良県下でも最大級の17mの横穴式石室を持つ径55mの円墳で、「被葬者は敏達天皇の皇子の押坂彦人大兄王」とする説があると記されていましたが、この古墳の築造は6世紀末だそうですから、これも実際は円墳ではなく八角形墳であろうと思います。...
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2019.7.5 平野塚穴山古墳の被葬者は誰か?3 ここまでの推理と検証から、広瀬郡が高市皇子の領地(食封)であり、草壁皇子・大津皇子の墓と同じように造られ、「夾紵棺(きょうちょかん)」で葬られていた平野塚穴山古墳の被葬者は高市皇子であろうと思います(^o^)。...
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2019.7.7 平野塚穴山古墳の被葬者は誰か?5 万葉集の草壁皇子の死を悼んで詠まれた歌には『日本書紀』が記さなかった(隠した)草壁皇子の墓は佐田にあることが記されていましたから、高市皇子の死を悼む歌にも墓の場所が分かる言葉があるのではないかと考えて調べてみると、柿本人麻呂が高市皇子の死を悼んで作った長大な挽歌があることが分かりました。 その歌は↓のような万葉仮名で記された長大なもので...
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2019.7.8 平野塚穴山古墳の被葬者は誰か?6 柿本人麻呂の長大な挽歌の最後には 春鳥の 彷徨(さまよ)ひぬれば 嘆(なげ)きも いまだ過ぎぬに 憶(おも)ひもいまだ尽きねば 言(こと)さへく 百済(くだら)の原ゆ 神葬(かみはふ)り 葬(はふ)りいまして麻裳(あさも)よし 城上(きのへ)の宮を 常宮(とこみや)と高く奉(まつ)りて 神ながら 鎮(しづ)まりましぬ...
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2019.7.9 平野塚穴山古墳の被葬者は誰か?7 舒明天皇の宮と言えば、大阪には「百済」がたくさんあることは以前調べたので知っていたのですが、奈良にも「百済」があることは全く知らなかったので<(_...
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2019.7.10 平野塚穴山古墳の被葬者は誰か?8 人麻呂の高市皇子の死を悼む挽歌の前半には天武天皇と壬申の乱への皇子の功績が歌われているようですが、その最初の かけまくも ゆゆしきかも 言はまくも あやに畏き明日香の 真神の原に 久かたの 天つ御門を畏くも 定めたまひて 神さぶと 磐隠(いはがく)ります の部分は、天武天皇が「明日香の真神の原に皇居を定めた」ことを歌っているようです。...
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2019.711 平野塚穴山古墳の被葬者は誰か?9 岡寺の辺りも「大字岡」なのですね。岡に造られたから「岡の寺」で「岡寺」、「大字飛鳥」に造られたから「飛鳥の寺」で「飛鳥寺」、「大字百済」に造られたから「百済の寺」で「百済寺」ということのようです。そうであれば、「大字岡」に造られた宮が「板葺の宮」や「浄御原の宮」だというのは名前から見ても不自然ですね。...
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2019.7.12 平野塚穴山古墳の被葬者は誰か?10 天武天皇の後を継ぐはずだった皇子たちのあまりにも早すぎる死には、その黒幕は持統天皇で、持統天皇が我が子の草壁皇子や孫の軽皇子を天皇にするために政敵となる皇子たちを次々に殺し、それまでのつなぎとして自分が王位に就いたのだという解釈がされていて、その解釈を信じている方は多いようですが<(_...
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2019.7.13 平野塚穴山古墳の被葬者は誰か?11 天武天皇の皇后で、天皇の直系でも男子でもなかった鵜野讃良皇女(うののさららのひめみこ)は、実際は天皇にはなっていなかったし、天武天皇の皇子たちを殺してもいなかっただろうと私は思います。...
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2019.7.15 平野塚穴山古墳の被葬者は誰か?12 父の天智天皇によって祖父を殺され、そのために幼くして母を失った鵜野讃良皇女(うののさららのひめみこ)は、13才で同母の姉の太田皇女と共に大海人皇子に嫁がされたのだそうです。天智天皇は、自分にいい感情を持っていなかった娘たちを厄介払いしたということでしょうか<(_ _)>。...
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2019.7.17 鵜野讃良皇女と安倍内親王 持統・元明・元正の3人の「女帝」には「天皇陵」も造られていませんから、実際は天皇にはなっていなかったか、もしなっていたとしても実権のない名目だけのものだったのではないかと思うのですが、https://blogs.yahoo.co.jp/sweetbasil2007/42028666.html...
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2019.7.19 鵜野讃良皇女と安倍内親王3 二人の皇子を生んだ文武天皇の妃の石川刀子娘(いしかわのとねのいらつめ)は、その名前から分かるように『記紀』が大臣の蘇我氏として隠した河内の石川流域を本拠としていた応神系の王族だったのです。...
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2019.7.20 鵜野讃良皇女と安倍内親王4 5世紀に葛城氏が記録から消え、6世紀に蘇我氏が突然豪族として出現してきたのは、葛城氏が蘇我氏に化けたからではなく、462年に昆支(こんき・余昆)が渡来してきて464年に倭王・武(諡号・応神天皇)となったからでしょう。...
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