ここまでの推理と検証から、広瀬郡が高市皇子の領地(食封)であり、草壁皇子・大津皇子の墓と同じように造られ、「夾紵棺(きょうちょかん)」で葬られていた平野塚穴山古墳の被葬者は高市皇子であろうと思います(^o^)。
2015年には年初から「明日香で発掘された石敷きの大規模遺構」が大きなニュースになっていたのですが、橿原考古学研究所の見解や学者さんたちのコメントに私は全く納得できなかったので、
現地へ出かけて自分で見て自分で考えてみることにし、それまでにあれこれ推理してきたけれど行ったことのなかった所に行ってみることにしました。たとえば架空の天皇だと推理した敏達天皇の幸玉宮の推定地だとか、同じく架空の天皇の雄略天皇の朝倉宮だとか(^_-)。池澤氏は雄略天皇は実在の天皇だとお考えのようで、『ワカタケル』ではワカタケルは雄略天皇で、朝倉宮に住んでいたことになっていますが(^o^)。
そういえば、「三韓征伐から帰ってきてから神功皇后が生んだということになっている応神天皇」について、池澤氏は「応神天皇は大后と通じたタケノウチノスクネの子で、自分の子を王統に繋ぐために仲哀天皇を亡き者にしたのではないか」というオハナシを作っていました。神功皇后は架空の人物として天皇系譜から削除されてしまっているのですが、それでは誰が応神天皇を生んだというのでしょうね?まあ誰が生んだにしても、父親がタケノウチノスクネなのであれば、天皇家は万世一系ではなくなってしまうのですけれどね(^_-)。
この時、草壁皇子の墓にも行ってみたのですが・・・・
宮内庁が草壁皇子の墓だとしている「岡宮天皇 真弓丘陵」
こここはただの丘にしか見えず、どこが古墳なのか、どういう古墳なのか、全く分かりませんでした<(_ _)>、
【2015年に↑の推理をした時には、都塚古墳はアメノタリシヒコ(蘇我馬子)の弟の蘇我境部臣摩理勢(そがのさかいべのまりせ)の墓かもしれないと考えたのですが、最近この古墳はアメノタリシヒコが造った父・用明天皇の墓であることが分かってきました。】
草壁皇子の墓とされているもう一つの束明神古墳の方へも行ってみたら、こちらはただの小さな土の盛り上がりにしか見えなかったので、これが皇子の墓?と信じられなかったのですが、
束明神古墳
その後関東で同じようなただの土の盛り上がりにしか見えない伊勢塚古墳や吉田古墳や天文台構内古墳などを見、それらは造られた時には昭和天皇の武蔵野陵と同じくらいの規模の下方上八角形墳だったことが分かってくるにつれ、
武蔵野陵
草壁皇子の墓は「岡宮天皇 真弓丘陵」ではなく、八角形墳の束明神古墳であることを確信しました。
万葉集の巻2に柿本人麻呂や舎人らが草壁皇子を偲んで創った歌が26首もあるのですが、その中に出て来る「真弓の岡 」や「佐田の岡辺」とはこの辺りのことだったのですね。