高市皇子の「三立岡墓」とは牧野古墳のことなのかな?と写真を確かめてみると、
牧野古墳
この古墳は、奈良県下でも最大級の17mの横穴式石室を持つ径55mの円墳で、「被葬者は敏達天皇の皇子の押坂彦人大兄王」とする説があると記されていましたが、この古墳の築造は6世紀末だそうですから、これも実際は円墳ではなく八角形墳であろうと思います。
また、571~585年に実際に在位していた大王は欽明天皇の後を継いだ息子の用明天皇(アメノタリシヒコの父)で、572~585年に在位したことになっている敏達天皇は架空の天皇ですから、その子の押坂彦人は大兄王(皇太子)ではありません。
敏達天皇の宮は桜井市の他田(訳語田・おさだ)にあったとされていますから、この人の領地はその辺りだったのではないでしょうか。敏達天皇は架空の天皇ですから、「訳語田幸玉宮」という天皇の宮殿は存在しませんが、この人の別名は他田(訳語田)天皇(おさだのおおきみ)だそうですから、他田(訳語田)に住まい(宮)があったのかもしれません。
訳語田・幸玉宮
推定地とされている戒重春日神社
そして息子の名前は「押坂の彦人」なのですから、この人の領地も奈良県東部の桜井市の忍坂の辺りにあったのではないでしょうか。西部の広瀬郡にある石舞台古墳(アメノタリシヒコの大王墓)に次ぐ規模の石室を持つ牧野古墳は、「押坂彦人」の墓ではないだろうと私は思います。
牧野古墳の棺は「夾紵棺(きょうちょかん)」ではなく家形石棺だそうですから、この古墳は7世紀後半の墓ではなく、696年に亡くなった高市皇子の「三立岡墓」でもないようです。
「上牧町の久渡古墳群の古墳時代の終わりごろに築かれた2号墳に、天武天皇の長男、高市皇子(654~696年)が葬られた可能性が浮上している。」という奈良新聞の記事もありましたが、この古墳の棺も箱式石棺だそうですから、7世紀末の高市皇子の墓ではないと思います。
地図を見ると、広瀬郡(現・北葛城郡広陵町・河合町)は平野塚穴山古墳のある香芝市の隣で、牧野古墳と平野塚穴山古墳は直線距離で3kmくらいしか離れていないようですから、「高市皇子の三立岡墓」とは、平野塚穴山古墳のことなのではないでしょうか。
壬申の乱の後、皇子たちには封戸(食封・領地)が与えられたそうで、高市皇子は691年には計5000戸の封戸を有していたそうですが、他人の領地にお墓が造られたはずはありませんから、「三立岡墓」が造られた現在の香芝市から広陵町の一帯が、壬申の乱で大きな功績のあった高市皇子に与えられていた封戸(領地)だったのではないでしょうか。ここは交通の要衝であり、物流や軍事的にも重要な場所だったようですから。