奈良県香芝市の平野塚穴山古墳は、草壁皇子・大津皇子の墓と同じように野口王墓古墳(天武天皇陵)の二分の一の大きさに造られ、野口王墓古墳や牽牛子塚古墳と同じように二上山の凝灰岩の張り石で装飾されていて、被葬者は王族の棺に使われていた、漆塗りの「夾紵棺(きょうちょかん)」で葬られていたのですから、その被葬者は天武天皇の皇子の一人であろうと私は思うのですが、それはいったい誰なのでしょうか?
平野塚穴山古墳の築造は7世紀後半だそうですから、それが正しいとすれば、被葬者は7世紀後半に亡くなった皇子でしょう。7世紀後半には
686 大津皇子
689 草壁皇子
696 高市皇子
699 弓削皇子
の4人の皇子が亡くなって(殺されて)います。すると被葬者は高市皇子・弓削皇子のどちらかの可能性が高そうですが、弓削皇子の領地は大阪府八尾市の弓削だったようですから、皇位継承第一位だった草壁皇子、第二位だった大津皇子の墓とほぼ同じ規模で同じ装飾を施された墓に夾紵棺で葬られていたこの古墳の被葬者は、皇位継承第三位だった高市皇子なのではないでしょうか?
けれど、『延喜式』を元に宮内省が治定した天皇陵は天智天皇陵・天武天皇陵の二つ以外は全部違っていましたから、これはあまりあてにはならないかもしれません(^_-)。この『延喜式』自体がウソ八百の『記紀』を元にして架空の天皇にまでお墓を割り当てているようですから。
関東人の私には広瀬郡も三立岡もどこにあるのか全く見当がつかなかったので(T_T)、「三立岡墓」で検索してみると、なぜか「牧野古墳」が出てきました。「牧野古墳」のある辺りが広瀬郡の三立岡だということでしょうか。
「牧野古墳」は何だか聞いたことがあるような?と思い、地図で牧野古墳を探してみたら思い出しました。2015年に富雄川と「トミ神社」探訪に出かけた時、法隆寺の南には古墳がたくさんあるのを地図で見て、時間の許す限り回ってみようと牧野古墳にも行っていたのです(^o^)。ただその時は、大国主(トミノナガスネヒコ)の足跡を辿っていたので、それらの古墳もついでに見ておこうというくらいの軽い気持ちだったのですが(^o^)。
その時「川合」や「広瀬」などの地名や古墳がたくさんあることなどから、その辺りの低地は古墳時代には海で、水上交通の要衝だったのではないかと考え、「広瀬神社」がこの地の支配者の祖廟かもしれないと思ったのでついでに神社にも行ってみたのですが、あの辺りが広瀬郡だったのですね(^o^)。
広瀬神社
行ってみるとやはり「ここは多くの川が合流して大和川になる交通の要衝で川合浜だった」と記されていました\(^o^)/。