万葉集には草壁皇子の死を悼んで読まれた歌がたくさんあり、それらの歌から、草壁皇子の墓は佐田にあることが分かったので、佐田にある野口王墓古墳(天武天皇陵)の二分の一のスケールで造られた八角形墳の束明神古墳が草壁皇子の墓に違いないと確信できたのですが、するとたぶん、佐田・真弓辺りの明日香村の西部一帯が草壁皇子の領地(食封)だったのでしょうね。皇太子一家はお父さんからお小遣いを貰って暮らしていたわけではないでしょうから(^_-)。
牽牛子塚古墳は束明神古墳の北の橿原市寄りの所にありましたから、草壁皇子の食封の北隣が大津皇子の領地(食封)だったようです。方向音痴の地理音痴で、自分の行きたい所や行った所を地図でなかなか探せない私ですが<(_ _)>、位置関係が少し分かってきたような気がします。
なぜ大王(天皇)や皇子たちの墓(古墳)が飛鳥のあちこちに散らばっているのか、何を根拠にお墓の場所を決めたのかが分からないし、地名や相互の位置関係も分からなかったので<(_ _)>、ナビ頼りで古墳を探して走り回ってきたのですが、根拠はそれぞれの領地であり、生前の自分の領地を見渡す高台に死後の住まいである墓が造られたということだったようです。
古墳がみな見晴らしのよい高台に造られていたのにはちゃんと理由があったのです。石舞台古墳からは二上山の方まで良く見えていました。
石舞台古墳の方形基壇
この基壇の上に今は天井石の見えている巨大な石室があり、その石室を覆う何段かに積み上げられ石で覆われた八角形の封土があったのですから、この古墳は生前の宮(島の宮)はもちろんのこと、辺り一帯を睥睨するような圧倒的な存在感を放っていたのでしょうね(^o^)。
そういえば牽牛子塚古墳も束明神古墳も「なぜわざわざこんな不便で寂しい所に造ったのだろう?」と思いながら山道を上って行った上に造られていました。
束明神古墳への道
やはり、「明日香で発掘された石敷きの大規模遺構」の記事を読んだ時に、橿原考古学研究所の見解に感じた「他人の領地や他人の家の庭先のような所に大王(天皇)の墓を造ったはずはないのではないか?」という疑問は当たっていたようです\(^o^)/。
このブログに何度も書いてきたように、固定観念や思い込みを持っていない子供や素人の「なんで?」という素朴な疑問は、学者さんたちの固定観念やご都合主義のつじつま合わせの矛盾を突く直感的で本質的なもののようですから侮ってはならないのです(^_-)
そういえば今大人気の「チコちゃんに叱られる」も、5才児のチコちゃんの「なんで?」にオトナが答えることができないという番組ですよね(^o^)。