人麻呂の高市皇子の死を悼む挽歌の前半には天武天皇と壬申の乱への皇子の功績が歌われているようですが、その最初の
かけまくも ゆゆしきかも 言はまくも あやに畏き
明日香の 真神の原に 久かたの 天つ御門を
畏くも 定めたまひて 神さぶと 磐隠(いはがく)ります
の部分は、天武天皇が「明日香の真神の原に皇居を定めた」ことを歌っているようです。
天武天皇の宮は「飛鳥浄御原宮」とされていますが、その浄御原とはどこにあったのだろう?と調べてみると、そういう地名は飛鳥にはなく、これは『日本書紀』が創った名前で、天武天皇の宮は「岡宮(おかのみや)」だったようです。
そこで「岡」はどこにあるのか調べてみると、皇極天皇の板葺宮跡とされている辺りだったのですが、板葺宮跡は発掘物から7世紀後半に造られた宮だということが考古学的には分かっているそうですから、『日本書記』が作った皇極天皇は642~645年に在位したというオハナシと時期があっていませんし、架空の舒明天皇の妻だったという皇極天皇も架空の天皇ですから「板葺宮」という皇居があったはずもありません(^o^)。
そこで、2015年には「伝・板葺宮跡」は架空の皇極天皇の「板葺宮」の跡ではなく、7世紀後半(673~686年)に在位した天武天皇が「岡」に造った「岡の宮」の跡であることを確かめようと「伝・板葺宮跡」へも行ってみました(^o^)。
この時に、ここで何か物証を手に入れたわけではないのですが、天武天皇の祖父(アメノタリシヒコ=馬子)の宮(島の宮)と墓(石舞台古墳)があった島の庄の方から下りてきて、天武天皇の父(蝦夷)と異母兄(入鹿)の宮(上の宮門・谷の宮門)と墓(双墓・ならびのはか)があった甘樫丘の麓に広がる「伝・板葺宮跡」とされている遺構を眺めながら、やはりこの遺構は天武天皇の「岡宮跡」に違いないと思ったのですが、この人麻呂の歌で天武天皇の宮が「明日香の真神の原にあった」ことを知って確信しました。まさにここが「真神の原」だったのですから\(^o^)/。
飛鳥寺の南に広がる「真神の原」
ところで京都では祇園祭りが始まって、7月いっぱい続くのだそうですが、山鉾巡行の3日前から山鉾が飾られ、間近でじっくりと鑑賞できるのだそうです。この山鉾の天照大神は「白蜀江花菱綾織袴で浅沓を穿き直径十二センチ程の円鏡を頸にかけ笏を持った眉目秀麗な美男子」つまり伊勢神宮のいうような女神ではなく男だということなので、それを確かめてみたいものですが(^o^)。
小説『ワカタケル』では、アマテラスはもちろん天皇家の祖で女になっているのですが、ヒミコも天皇の系譜に組み込まれていて、紀元前の欠史8代とされている時代の女王だったことになっていました。そしてカムヤマトイワレヒコとタケノウチノスクネが憑いたワカタケルに対して、アマテラスとヒミコが憑いた大后のワカクサカが自分に大王の位を譲るようにとワカタケルに迫り、逆上したワカタケルに斬り殺されてしまったので、今日はワカクサカの分身だというヰト(稗田阿礼だそうです)がその死体をこっそり片づけさせようとしているところなのですが・・・・・
池澤氏は本当に「この国の成り立ち」を書いているのでしょうか?私にはこの国の成り立ちとは全く関係のない「権力の座を正当化するために書かれた『記紀』の作り話」をさらに増幅した作り話を書いているとしか思えないのですが<(_ _)>。