舒明天皇の宮と言えば、大阪には「百済」がたくさんあることは以前調べたので知っていたのですが、奈良にも「百済」があることは全く知らなかったので<(_ _)>、舒明天皇の「百済宮」は大阪にあったのかな?と思ったのですが、飛鳥の天皇の宮が大阪にあったはずはありませんよね。架空の孝徳天皇の宮も難波にあったことになっていましたけれど・・・・
変だと思って調べてみたら、舒明天皇の「百済宮」は大阪の「百済」ではなく、奈良の広陵町の「百済」にあったことが分かったのですが、それでもまだ腑に落ちませんでした。確かに広陵町の「百済」は大阪の「百済」よりは近いけれど、飛鳥からは少し離れているのですよね。都は皇居を中心に造られるはずなのに、なぜ飛鳥の天皇だった舒明天皇の皇居は飛鳥から離れた所にあるのでしょう?舒明天皇が飛鳥から広陵町に遷都したというわけではないようなのですが・・・
この唐突で不自然な宮の位置は架空の天皇の架空の宮だからだろうと思ったのですが、でも、それならなぜ「飛鳥岡本宮」だとしていた架空の舒明天皇の宮をわざわざ飛鳥から離れた位置にあって不自然な広陵町に移したことにしたのだろう?という疑問が残りました。
わざわざ飛鳥からは離れた何もない所に天皇の宮があったことにしたはずはありませんから、ここには高市皇子の宮があったのではないでしょうか。天武天皇の長子で皇位継承資格者であり、多くの封戸を有して裕福だった高市皇子の宮であれば天皇の宮に次ぐ大きなものだったのでしょうから、その宮の主が高市皇子であったことを隠すために架空の舒明天皇の皇居だったことにしたのかもしれませんね(^o^)。
この広陵町百済には、「聖徳太子建立の熊凝精舎を引き継いだ百済大寺の故地である」という伝承を持つ百済寺があるのですが、この百済大寺は「官寺」で、後に平城京に移転して南都七大寺の1つ大安寺となったのだそうです。それならこの百済寺をここに建立したのは王族で、仏教を導入して日本初の本格的寺院である飛鳥寺を造ったアメノタリシヒコ(=馬子=聖徳太子)の子孫であり、この一帯を領地としていた高市皇子だったのではないでしょうか。
飛鳥寺復元図
現在の飛鳥寺
ちなみに百済寺は高市大寺とも呼ばれていたそうで、『日本書記』は、この寺を「高市郡に移し、高市(たけち)大寺と改号した」と記しているようですが、この寺は、初めから高市皇子が造った「高市大寺」と呼ばれていたので、つじつまを合わせるために「寺を高市郡に移したから高市大寺としたのだ」というオハナシを作ったのかもしれませんね(^_-)。
「仁徳天皇陵」を含む「百舌鳥・古市古墳群」の世界遺産登録が決定し、新聞には「仁徳天皇陵古墳という表記では、学術的には被葬者が未確定である実情が誤解されかねないことが心配だ」とありましたが、『記紀』には本当にウソや作り話が多くて仁徳天皇は架空の人物なのです。
『記紀』のウソを信じる学者さんたちにとっては「仁徳天皇は実在の天皇だけれど、この古墳の被葬者が仁徳天皇かどうかは未確定」ということのようですが、論理的に考えるなら、仁徳天皇は作り話であって、百舌鳥の「仁徳天皇陵」の本当の被葬者は応神天皇で、古市の「応神天皇陵」とされている「誉田山御廟古墳」の本当の被葬者は崇神天皇なのです(^o^)。