柿本人麻呂の長大な挽歌の最後には
春鳥の 彷徨(さまよ)ひぬれば 嘆(なげ)きも いまだ過ぎぬに 憶(おも)ひもいまだ尽きねば 言(こと)さへく 百済(くだら)の原ゆ 神葬(かみはふ)り 葬(はふ)りいまして麻裳(あさも)よし 城上(きのへ)の宮を 常宮(とこみや)と高く奉(まつ)りて 神ながら 鎮(しづ)まりましぬ
とあり、常宮とは「いつまでも変わらない宮殿。永遠の宮」という意味のようなのですが、これは、百済の原に高市皇子の城上宮があり、高市皇子はいつまでも変わらずにその宮にずっといるものと思っていたのに思いがけず亡くなってしまって百済の原から葬送の地へ送り出されることになってしまったという意味ではないでしょうか?
この「百済の原」を朝鮮半島の百済とする解釈もあるようですが、それでは全く意味が分かりませんよね<(_ _)>。
ところが高市皇子の食封だったのではないかと推理した広瀬郡には、現在の広陵町の東部の曽我川の左岸に「百済」の地名があるのです。私はこの歌の「百済の原」とはここのことなのではないかと思うのですが・・・・。
舒明天皇は架空の天皇ですから皇居があるはずはないのですが、天皇に皇居がないのは不自然ですから、高市皇子の広陵町の「百済宮」を架空の舒明天皇の皇居だったことにしてつじつまを合わせ、同時に高市皇子の痕跡を消そうとしたのではないでしょうか。墓の場所も記さなかったようですし。
でも、舒明天皇の宮が飛鳥にあったとしても、甘樫丘に墓が造られたはずはないのですが、亡くなった時に皇居が広陵町の百済にあったのであればなおのこと、何の関係もない甘樫丘に墓が造られたはずはありませんよね(^_-)。
橿原考古学研究所が舒明天皇の初葬地だとする甘樫丘の大規模遺構
因みに敏達天皇の皇居は訳語田(おさだ)の幸玉宮とされていましたが、敏達天皇も架空の天皇ですから訳語田に皇居があったはずはなく、訳語田にあった王族の宮は大津皇子の宮だったようです。Wikipedia によれば「川島皇子の密告により謀反の意有りとされて捕えられた大津皇子は、翌日に磐余(いわれ)にある訳語田(おさだ)の自邸にて自害した」のだそうですから。
これも、大津皇子の宮を架空の敏達天皇の宮だったことにしてつじつまを合わせ、同時に大津皇子の痕跡を消そうとしたのではないでしょうか。大津皇子は二上山の雄岳頂上付近に埋められたことにして牽牛子塚古墳が大津皇子の墓であることも隠したようですしね。