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平野塚穴山古墳の被葬者は誰か?13

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天智天皇によって祖父と母を失った鵜野讃良皇女は、686年に夫の天武天皇が亡くなると、その年のうちに同母の姉の子で甥の大津皇子を不比等の仕組んだ事実無根の謀反の密告によって24才で失い、息子の草壁皇子は即位を3年も阻まれたうえに、アメノタリシヒコ(馬子)の代からの事業であった律令制に移行するための基盤となる「飛鳥浄御原令」が高市皇子を始めとする天武天皇の皇子たちの手によって完成する直前の689年に27歳で失い、697年に不比等によって強引に立太子され14才で皇位に就かされた孫の軽皇子(文武天皇)も、不比等の娘の宮子との間に不比等の孫である首皇子が生まれると24歳で失い、軽皇子の立太子に異議を唱えた弓削皇子も699年に27才前後で失っているのです(T_T)
 
「古代史探偵・推古」の私としては、長寿の家系だった応神天皇の皇子たちがみな偶然に20代の若さで死んでしまったのだとはとても思えません。その後も天武天皇の子孫たちは、朝廷から王位継承権を持つ人がいなくなるまで藤原氏の「謀反や呪詛をデッチ上げて密告させる」という手法で次々に殺されたり流されたり平民に落とされたり臣籍降下させられたりし、草壁皇子の曾孫の安倍内親王(称徳天皇)の暗殺と弓削皇子の子孫の弓削道鏡の下野への追放を最後に、称徳天皇の遺詔を偽造して天智天皇の孫の白壁王(光仁天皇)を皇位に就けた藤原氏の天下になったのですから。
 
天武―草壁―文武―聖武
                 ||基王・安倍内親王(後の孝謙・称徳天皇)

    不比等―光明皇后


そんな不比等と藤原氏にとって、もっとも目障りでなんとしても排除してしまいたかったのは、壮年で実績も手腕もあって鵜野讃良皇女にとって最も頼りになり、裕福な上に長屋王という息子のいた高市皇子だったのではないでしょうか。もしも天武天皇の長子の高市皇子が王位に就いてしまえば、名目だけの女帝や幼帝のように思い通りにはできないうえ、息子の長屋王やその息子たちが王位を継いでいくことになってしまうのですから。
 
高市皇子の死にも不審な点があるようですが、状況から見て高市皇子もやはり暗殺されたのではないかと思います。その後、長屋王とその息子たちも藤原氏によってほとんどが自害させられたり殺されたりしてしまっていますから(T_T) (T_T) (T_T)

天武天皇の子孫たちを殺す(させる)ようなことができたのはだれなのか、そのことによって誰が一番利益を得たのかを考えれば、それを仕組んだのが誰であるかは明瞭で、学者さんたちの定説のように「持統天皇(鵜野讃良皇女)が黒幕」であったはずはありませんよね。
 
高市皇子の食封であった広瀬郡に天武天皇陵の二分の一のスケールで、草壁皇子・大津皇子の墓と同じように造られた平野塚穴山古墳の被葬者は高市皇子であろうと私は思います。

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