二人の皇子を生んだ文武天皇の妃の石川刀子娘(いしかわのとねのいらつめ)は、その名前から分かるように『記紀』が大臣の蘇我氏として隠した河内の石川流域を本拠としていた応神系の王族だったのです。
応神系王族に王位を継がせないために天武天皇の皇子たちを次々に殺し、女帝や幼帝を名目上の天皇にして実権を握っていた不比等と藤原一族にすれば、ここはどんな手を使ってでも応神系王族の石川刀子娘が皇后になってその息子が王位に就くことを阻止し、自分の孫でもある首皇子を天皇にしなければならないということだったのでしょうね<(_ _)>。
学者さんたちは、初めから天皇は天皇、豪族は豪族であって、どうやって天皇や豪族になったのかなどということは考えてもみないようですが、「会計簿」を考えずにカミサマが何とかしてくれると考えるのであれば、全ては「ロマン」なのでしょうね(^_-)。
そんな学者さんたちは、豪族の葛城氏が豪族の蘇我氏になったのだ(と考えればよい)だとか、謀反を起こした「蘇我氏」がマイナスイメージを払拭するために「石川氏」と名前を変えたのだ(と考えればよい)だとかというような非論理的なつじつま合わせの説を次から次へと作りだしては出版しているようですが<(_ _)>、
「葛城氏」とは葛城を本拠地とし、ヤタガラスになって天津族の手引きをしたアジスキタカヒコネ(事代主・鴨大神・一言主神)の一族のことであって、蘇我氏ではありませんし、蘇我氏が石川氏になったのでもありません。
ヤタガラスになったアジスキタカヒコネ
アジスキタカヒコネを祀る葛城の高鴨神社
「葛城氏」が6世紀に記紀から消えたのは、「蘇我氏」になったからではなく、天津族の手引きをして東征の一等功臣となった葛城の鴨(賀茂)氏の一族が「葛城王朝」と呼ばれるような傲慢な振る舞いをしたために、腹を立てた崇神系王族の倭王・済か倭王・興によって、5世紀に土佐に流されてしまったからでしょう(^o^)。
このことは、「天皇の真似をした葛城の一言主神を雄略天皇が土佐に流した」というオハナシとして『古事記』に記されていますし、明治になって「土佐神社」と改称した土佐一之宮は、改称するまでは「土佐高賀茂(たかかも)大社」で、祭神は「高賀茂大明神」、つまり葛城(賀茂)氏の祖である「味鋤高彦根神(アジスキタカヒコネノカミ)」だったのですから(^o^)。葛城氏が葛城に帰ることができたのは300年後だったそうですから、その間中央の歴史からは消えていたということだろうと思います。