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平野塚穴山古墳の被葬者は誰か?10

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天武天皇の後を継ぐはずだった皇子たちのあまりにも早すぎる死には、その黒幕は持統天皇で、持統天皇が我が子の草壁皇子や孫の軽皇子を天皇にするために政敵となる皇子たちを次々に殺し、それまでのつなぎとして自分が王位に就いたのだという解釈がされていて、その解釈を信じている方は多いようですが<(_ _)>、そういう観点からは人麻呂の長大な挽歌は「持統天皇が人麻呂に作らせた儀礼的で内容のない歌だ」という解釈になるようです。
 
でも、その「持統天皇が黒幕で天武天皇の皇子たちを殺した(殺させた)」という解釈は非論理的で矛盾だらけだと私は思います。母親はそれぞれ違っても、その皇子たちはみな天武天皇の子であり、壬申の乱を共に戦った身内だったのですから、その身内を次々に殺してしまったら、我が子の草壁皇子を皇位に就けることができてもその立場は弱くなるばかりではありませんか。「壬申の乱」はクーデターであって、周りには権力の奪還を狙う天智天皇の身内や天智天皇側に付いた人たちがまだたくさんいたはずなのに、草壁皇子の周りを固めてくれる身内の皇子たちを持統天皇が次々に殺したりするでしょうか?
 
草壁皇子が3年間も即位できなかったのは病弱だったためだというつじつま合わせの説が作られているようですが、継承第2位で人望があったという大津皇子は天武天皇の死去直後に殺されてしまいましたが、当時は第3位の高市皇子を始めとして何人もの皇子がいたのですから、草壁皇子が本当に即位もできないほどの病弱であったなら、政権の継続と安定のためにも高市皇子か他の皇子を立てたはずですよね。
 
また、草壁皇子は3年間喪に服していたため即位できなかったのだという説も作られているようですが、皇子が喪に服するために即位できなかったのであれば、皇后だった鵜野讃良皇女はなぜ即位できたのでしょう?皇后は夫が死んでも喪に服さないのでしょうか?
 
そもそも王位(皇位)は直系の男子が継ぐものだったのですから、直系でも男子でもない女性には資格がなかったはずで、他に誰もいなかったのであればともかく、何人もの直系の男子である皇子たちをさしおいて皇后(持統)や草壁の妻(元明)や文武の姉(元正)が天皇になったはずはないと私は思うのですが。

だから、僕は歴史家には呆れ返るのさ。彼らときたら、一つの事態の納得性ということに関して何にも考えてみようとしないらしい。(『時の娘』より)
 
持統天皇以前にも、敏達天皇の皇后が推古天皇という天皇になったとされていますが、推古天皇は『記紀』が創った架空の天皇です。敏達天皇自身が架空の天皇なのですから、その妻が皇后だったはずはありませんし、ましてや天皇になっていたはずはありませんよね(^o^)
 
推古天皇が在位していたことになっている592628年のうちの622年までは、「推古天皇の摂政の聖徳太子」と「大臣の蘇我馬子」という二人の架空の人物として『記紀』が騙ったアメノタリシヒコが大王だったのです。
 
隋の煬帝に「日出処の天子」として国書を送った大王は(推古天皇でも聖徳太子でもなく)アメノタリシヒコだと『隋書 東夷伝』には記されているので、学者さんたちは「答礼使としてやって来た裴世清が謁見したのがなぜ女帝ではなく男だったのかは謎だ」として「裴世清が謁見したのは摂政の聖徳太子だったと考えればよい」というような説を作ってつじつまを合わせているようですが、この時の大王は推古女帝ではなくアメノタリシヒコだったのであって、『記紀』の方がウソを書いていたのです(^o^)
 

 

 

 

 


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