天武天皇の皇后で、天皇の直系でも男子でもなかった鵜野讃良皇女(うののさららのひめみこ)は、実際は天皇にはなっていなかったし、天武天皇の皇子たちを殺してもいなかっただろうと私は思います。
天智天皇の娘だった鵜野讃良皇女が「本当は夫の起こした壬申の乱には否定的で、天武王朝を崩壊させ天智王朝を再興しようとしていた」というのであれば話は別ですが、『日本書紀』には「大海人皇子とともに謀を定めた」と記されているそうで、鵜野讃良皇女はこのクーデターには自らの意思で積極的に加わっていたようですし、「甥(姉の子である大津皇子)を殺してでも王位につけようとした」とされている草壁皇子の父は天武王朝の始祖である天武天皇なのですし、皇太子は草壁皇子と天武天皇の存命中に定められていたのですから、大津皇子が取って代わるということはなかったはずですし。
天智王朝を倒すために命懸けで起こしたクーデター・壬申の乱で大きな働きをした皇子たちを殺し、夫と共に誕生させたばかりの政権を自ら弱体化させるようなことを鵜野讃良皇女がしたとは思えません。「壬申の乱」で沈着冷静な動きを見せて夫を補佐した鵜野讃良皇女は、我が子可愛さに大局を見失って自分の首を絞めるような愚かな女性ではなかっただろうと私は思います。
鵜野讃良皇女(持統天皇)は確かに天智天皇の娘ではあるのですが、その母は大王だった蘇我石川麻呂(入鹿)の娘の越智娘(おちのいらつめ)で、鵜野讃良皇女は、天武天皇と同じく応神天皇やアメノタリシヒコ(馬子)の血を引く応神系の王族でもあったのです。
そして、実の兄弟間の王位争いとして語られてきた「壬申の乱」は、母は同じだけれど父が違う応神系王族の天武と崇神系王族の天智の争いであって、実際は天武天皇の方が4才年上の兄だったのです。その複雑な血縁関係と系図は「古代の地形から『記紀』の謎を解く」をご参照ください。書店には出していないので在庫はあるはずなのにAmazonではなぜか中古ばかりになっているようですけれど(^_^.)。
鵜野讃良皇女からみると、表面的には天武天皇は父の天智天皇がクーデター・乙巳の変(『日本書記』は645年の「大化の改新」と偽って記していますが、実際は649年)で応神系大王の石川麻呂(入鹿)を殺し、政権を奪って打ち立てた天智王朝を倒した敵のように見えますが、見方を変えると、天智天皇は鵜野讃良皇女にとっては祖父の石川麻呂を殺し、それが元で早死にしてしまった母の越智娘(おちのいらつめ・石川麻呂の娘)の敵(かたき)であり、天武天皇にとっては異母兄の蘇我石川麻呂(入鹿)を殺し、父の倉麻呂(蝦夷)を自害に追い込んだ敵なのです。
壬申の乱を描いた里中満智子著『天上の虹』にはこの辺りの鵜野讃良皇女の感情の機微が描かれていたので、表面的な権力闘争ばかりに目が行ってしまう男性の目線とは違うものを感じてさすが、と思ったのですが、この漫画には複雑な人間関係と系図が描き込まれていましたから、複雑な血縁関係は文字で読むよりずっと分かりやすいかもしれません(^o^)。
韓国歴史ドラマを見ていると、父を殺されたら必ず敵を討たなければならなかったようなのですが、それが文化というか儒教の道徳だったようですね。