「金印・志賀島・安曇族」12 韓と漢
2018.6.13 「金印・志賀島・安曇族」12 韓と漢 林立していた30余国もの小王国を滅ぼして九州を統一した天津族は、この戦いでの勝利に大きく貢献した論功行賞として、海人族の各氏族を天津族の朝廷で高官に取り立てたようです。...
View Article「金印・志賀島・阿曇族」13 漢と韓2
2018.6.14 「金印・志賀島・阿曇族」13 漢と韓2 「漢と韓」で思い出したのですが、私は子供のころからよく言葉とか文字にひっかかっていました。なせそういう名前なのだろう?とか、なぜそういう文字なのだろう?とか。...
View Article「金印・志賀島・阿曇族」13 宮地嶽古墳2
2018.6.15 「金印・志賀島・阿曇族」13 宮地嶽古墳2 宮地嶽古墳に戻ります。宗像市にある宮地嶽古墳は、6世紀末から7世紀初めに造られた阿曇族の首長の墓ではなく、形も円墳ではなく八角形墳だろうと思います。 6.12に https://blogs.yahoo.co.jp/sweetbasil2007/43680198.html...
View Article「金印・志賀島・阿曇族」14 宮地嶽古墳3
2018.6.16 「金印・志賀島・阿曇族」14 宮地嶽古墳3 アメノタリシヒコ(=蘇我馬子)の墓(石舞台古墳)以降の天皇墓は八角形墳のはずなのに、明治・大正・昭和天皇の陵は上円下方墳になっていますよね。でも、これは学者さんたちの勘違いと思い込みのせいなのです! 昭和天皇武蔵野陵...
View Article「金印・志賀島・阿曇族」15 宮地嶽古墳4
2018.6.17 「金印・志賀島・阿曇族」15 宮地嶽古墳4 天智天皇の御廟野古墳は一辺が70m以上もある方形壇に乗った八角形墳だということが分かったのですが、天智天皇の息子の大友皇子は天智天皇の死去後に起きた壬申の乱で敗北して自害してしまったのですから、父のお墓を造る時間はなかったのではないでしょうか?それでは御廟野古墳を造って天智天皇を手厚く葬ったのはいったい誰なのでしょう?...
View Article「金印・志賀島・阿曇族」16 宮地嶽古墳5 二つの石棺
2018.6.18 「金印・志賀島・阿曇族」16 宮地嶽古墳5 二つの石棺 菖蒲池古墳の石室には石棺が二つ入れられていたということを知って、私は649年に山田寺で自害した(殺された?)大王・入鹿(=石川麻呂)とその息子の太子・興志の棺ではないかと考えたのですが、入鹿と蝦夷の棺ではないかという説もあるようです。...
View Article「金印・志賀島・阿曇族」17 宮地嶽古墳6 天上の虹
2018.6.19 「金印・志賀島・阿曇族」17 宮地嶽古墳6 天上の虹 『隋書』倭国伝には、600年に隋に使者を送った倭王は「阿毎多利思比狐(アメノタリシヒコ)」、太子は「利歌彌多弗利(リカミタフリ)」と記されているそうです。この名前にはとても違和感があったのですが、これは、あちらが聞き取った音(おん)にあちらで適当な文字を当てはめたということなのでしょうか?...
View Article「金印・志賀島・阿曇族」19 宮地嶽古墳8 「己酉の変」?
2018.6.21 「金印・志賀島・阿曇族」19 宮地嶽古墳8 「己酉の変」? 『日本書紀』はアメノタリシヒコを隠すために創り出した架空の「厩戸皇子(聖徳太子)」の子孫を、息子の山背大兄皇子とともに一族の全員が自害したというオハナシを作って消し去りました。...
View Article「金印・志賀島・阿曇族」21 宮地嶽古墳10 百済の昆岐王(こんきおう)
2018.6.23 「金印・志賀島・阿曇族」21 宮地嶽古墳10 百済の昆岐王(こんきおう) 蝦夷の領地だった河内長野の高向は石川の上流域にあるのですが、その下流の大阪府羽曳野市には、応神系王族の祖である「応神天皇(=百済の王族・余昆)」を祀る飛鳥戸(あすかべ)神社と飛鳥千塚古墳群がありますから、石川流域は応神系王族の本貫の地だったようです。...
View Articleコメント返事へのお返事 アトランティス
2018.6.25 コメントへのお返事 アトランティス Takeshiさまから↓のようなコメントをいただきました。――・――・――・――・――・――・――...
View Article頻発する地震と噴火
2018.6.27 頻発する地震と噴火 昨夕聞いたのは、「17:00に広島北部でM4.9の地震があった」という速報だったのですが、昨日は他にも4:16に千葉で地震があり、さらに19:46には千葉でM4.4の地震が起きたのだそうです<(_ _)>。 17:00の広島北部の地震では島根も震度4~5と大きく揺れたようですが、島根では2ヶ月半前の4.9 にも島根西部を震源とする M6.1...
View Article「金印・志賀島・阿曇族」24 宮地嶽古墳13
2018.6.28 「金印・志賀島・阿曇族」24 宮地嶽古墳13 また地球の歴史に行ってしまいましたが、ニンゲンの歴史に戻ります(^o^)。...
View Article「金印・志賀島・阿曇族」25 宮地嶽古墳14
2018.6.29 「金印・志賀島・阿曇族」25 宮地嶽古墳14 当時の最大級の古墳だという「段の塚古墳」が忍坂に造られたことについて、他人の領地に巨大なお墓を造ることなどできたはずはないから、忍坂の辺りは「王族の田村(王)」の領地だったのではないかと書きましたが、先日「呉越春秋時代」を舞台にした小説『湖底の城』を読んでいたら、「食邑(しょくゆう)」という言葉が出てきました。...
View Article「金印・志賀島・阿曇族」26 宮地嶽古墳15
2018.6.30 「金印・志賀島・阿曇族」26 宮地嶽古墳15 『湖底の城』は伍子胥が主人公だったので孫武の出番は少なく、以前調べた「呉王・闔閭(こうりょ)が戦死した後、孫武は伍子胥と共に夫差を補佐して越と戦い雪辱を果たした」というオハナシとは違って「闔閭が戦死した戦いの前に孫武は病死してしまった」というオハナシになっていました。 「え~...
View Article「金印・志賀島・阿曇族」27 宮地嶽古墳16
2018.7.1 「金印・志賀島・阿曇族」27 宮地嶽古墳16 「呉」と言えば、私は「呉」には紀元前の呉と紀元後の呉があるということが分かっていなかったのですが<(_...
View Article