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「金印・志賀島・阿曇族」17 宮地嶽古墳6 天上の虹

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2018.6.19 「金印・志賀島・阿曇族」17 宮地嶽古墳6 天上の虹
 
『隋書』倭国伝には、600年に隋に使者を送った倭王は「阿毎多利思比狐(アメノタリシヒコ)」、太子は「利歌彌多弗利(リカミタフリ)」と記されているそうです。この名前にはとても違和感があったのですが、これは、あちらが聞き取った音(おん)にあちらで適当な文字を当てはめたということなのでしょうか?
 
中国では小野妹子が「蘇因高」、葛井真成が「井真成」となっているように、これは中国での表記であって、日本でも実際にそう呼ばれていたのかどうかはわかりませんね<(_ _)>

「利」は「和」の間違いだという説もあるそうですが、確かに「若〇〇」という名前はよくありますから、その方が違和感は少ないような気もします。アメノタリシヒコの祖父の欽明天皇は「ワカタケル王」ですしね(^o^)
 
『日本書紀』は、「アメノタリシヒコ」を「厩戸皇子・蘇我馬子」、太子の「リ(ワ?)カミタフリ」を「蘇我蝦夷・蘇我倉麻呂」、太子の子を「蘇我入鹿・蘇我石川麻呂」とすることによって三代の大王を大臣・蘇我氏として隠し、入鹿が殺された「大化の改新」と石川麻呂が殺された山田寺の事件という二つのオハナシを作ったのです。
 
大王・入鹿を殺しても、入鹿の兄弟や娘たちは生きていたので、そちらは石川麻呂の兄弟や子孫だということにし、架空の聖徳太子の子供たちは全員山背大兄皇子と共に自害し、入鹿の子供たちは「大化の改新」の時に蝦夷と共に死んだというオハナシを作って架空の人物の子孫は全て消したわけですね。
 
石川麻呂の娘たちや女の孫たちの多くが天皇妃や皇太子妃になっているのですから、石川麻呂が「日本書紀」が記しているような謀反人だったはずはありませんよね(^_-)。天智天皇妃になっていた越智娘(おちのいらつめ)は石川麻呂の娘であり、天武天皇妃となった大田皇女大津皇子の母)・鸕野讚良皇女(草壁皇子の母)は越智娘の娘で石川麻呂の孫なのです。
 
王族間で何重にも結婚が繰り返されていたこの時代の系図は複雑で分かりにくいのですが、「古代の地形から『記紀』の謎を解く」に馬子を中心とした「蘇我氏略系図」を入れてありますのでそちらをご参照ください。
 
↓は壬申の乱の周辺を描いた里中満智子著『天上の虹』にあった天智天皇と天武天皇のお妃たちとその子供たちの関係を示す系図を友人が拡大コピーしてくれたものなのですが、複雑すぎてちょっと見たくらいではとても分かりませんよね~。
 
イメージ 1

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この漫画は『日本書紀』を元にして描かれていますから、石川麻呂が入鹿で大王だったということはもちろん描かれていませんし、なぜ王族でもない蘇我石川麻呂や蘇我赤兄の娘たちが何人も天皇妃になっているのかということには触れられていません。
 
でも、学者さんたちは太田皇女と鸕野讚良皇女姉妹が天智天皇の娘であることばかり強調していますが、「天上の虹」では、天智天皇妃となっていた越智娘が、父の石川麻呂を夫に殺されたことで心を病み、太田皇女と鸕野讚良皇女姉妹は祖父を殺し、母を衰弱死させた父・天智天皇に複雑な思いを持っていたという描写がありました。
 
天智天皇の娘であった鸕野讚良皇女が天武天皇と共に「壬申の乱」を起こした背景には、5世紀に始まった崇神系王族と応神系王族の熾烈な王位争いがあったのです(T_T)
 
 

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