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「金印・志賀島・阿曇族」18 宮地嶽古墳7 蘇我氏

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2018.6.20 「金印・志賀島・阿曇18 宮地嶽古墳7 蘇我氏 

 
蘇我氏は、6世紀の蘇我稲目の時に突然歴史に現れたということになっているようですが、そんな新参者がいきなり天皇を殺したり作ったりできるような実力者や権力者になれたはずはありませんよね。王家に生まれたものでなければ王にはなれない、貴族の家に生まれたものでなければ貴族にはなれないというのが「身分制度」であり、地位や身分は世襲だったのですから(^o^)
 
6世紀に突然登場してきたという蘇我氏が最高位の大臣になっているのは、『日本書紀』がこの時に「大臣の蘇我氏」を作ったからなのです(^o^)
 
学者さんたちは、なぜ新参の蘇我氏がいきなり天皇をも牛耳るような実力者になれたのかを説明するために、古代豪族の葛城氏が蘇我氏になったと考えればよいとか、平安時代に蘇我氏が消えて石川氏が台頭したのは、蘇我氏が石川氏に改姓したのだと考えればよいなどといったつじつま合わせの説をひねり出しているようですが・・・・
 
「蘇我氏」とは『日本書紀』が便宜上作った氏族の名前で、蘇我稲目は欽明天皇の息子の用明天皇、馬子は孫、蝦夷は曾孫、入鹿は曾曾孫(4世の孫)であって、実際は最高権力者である4代の大王(おおきみ)だったのであり、天皇を牛耳っていた大臣ではなく天皇そのものだったのです (^o^)
 
『日本書紀』を作った朝廷の貴族は、それが頭にあったため、突然現れた蘇我氏が(崇峻)天皇を殺したり、自分の姪を(推古)天皇にしたりできるような実力者だったというような不自然なオハナシを作ってしまったのでしょう。
 
でも学者さんたちは疑問には思わないようですが、どれほどの実力者だったとしても、大臣にすぎなかった蘇我氏が大王(天皇)を差し置いて自分の家を「宮門(みかど)」、自分の子を「王子(みこ)」、自分の墓を「陵(みささぎ)」と呼ばせたりできたはずはありませんよね~。現代に置き換えてみれば、皇居の近くで総理大臣が自分の家を皇居、自分の子供たちを親王と呼ばせているようなものですものね(^_-)
 
なれるはずのない人が天皇になったり大臣になったりしていたというオハナシを作ったのは男性で、男性はそういうオハナシを「ロマン」として信じるようですが、現実的な女性は、「なんで?」「本当に?」と疑問を持ってしまうようです(^o^)
 
『日本書紀』が専横な大臣・蘇我氏と記した蘇我稲目・馬子・蝦夷・入鹿は、応神天皇の子孫で571649年の間の日本の大王(天皇)であり、『日本書紀』がこの間の天皇として記した「敏達・崇峻・推古・舒明・皇極・孝徳・斉明」は、この間の空白を埋めてつじつまを合わせるために『日本書紀』が作ったオハナシの登場人物で、実際は天皇にはなっていなかった人たちなのです。
 
教科書や、学者さんたちの解釈書や、歴史小説や、歴史ドラマなどを見ていると、ついそれが「本当の歴史」なのだと思ってしまいますが、そういうものは、事実からはかけ離れたオハナシであることが多いようです<(_ _)>

聖徳太子を信仰する人には聖徳太子が実在の人に見え、『記紀』を信奉する学者さんには「敏達・崇峻・推古・舒明・皇極・孝徳・斉明」がみな実在の天皇に見えるようで、いろいろなオハナシや解釈が作られているのですよね。
 
で、地域資料や↓のような本を見て「エ~~ッ?」と思ったり、
 
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奄美の郷土史研究家が「流人」の調査した↓のような記事を読んで、大河ドラマの西郷像と奄美に残る西郷の実像とのギャップに唖然としたりすることになるわけです<(__)>


イメージ 2

検証されていない「歴史」の解釈は、書き手がその人物や出来事をどう見ているか、どう見たいと思っているかに左右され、書き手の心情や意図によって180度変わるものでもあるようです。
 
 

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