『日本書紀』はアメノタリシヒコを隠すために創り出した架空の「厩戸皇子(聖徳太子)」の子孫を、息子の山背大兄皇子とともに一族の全員が自害したというオハナシを作って消し去りました。
学者さんたちはこのオハナシを事実と信じているようなのですが、このオハナシの「厩戸皇子」は太子であって天皇ではないのですから、その厩戸皇子の息子が「山背大兄皇子」という名前のはずはありませんよね。「皇子」というのは天皇の子のことであり、大兄というのは天皇の長子で太子のことなのですから(^o^)。
もし厩戸皇子が実在したとしても、その子供たちは皇子や皇女ではありませんし、ましてや太子であったはずがありません。また、厩戸皇子が推古天皇の太子だったというのも不自然です。推古天皇には竹田皇子という息子がいたのですから、摂政はともかくとして、太子には当然自分の息子を立てたはずですものね(^o^)。「厩戸皇子(聖徳太子)」も「推古天皇」も「竹田皇子」もみな架空の人物なのです。そもそも推古天皇は敏達天皇の妻であって、天皇の直系でも男子でもなかったのですし。
3代の蘇我氏は大臣ではありませんでしたし、中大兄皇子は政治改革を目指してはいませんでしたし、薄葬令も出してはいませんから、政治刷新のために中大兄皇子が645年に「大化の改新」を起こしたというのも『日本書紀』の作り話なのです。645年は蝦夷(倉麻呂)が死去し、入鹿(石川麻呂)が大王になった年であろうと思います。
また、中大兄の両親は田村王と宝皇女で、田村王が舒明天皇(在位629~641年)に、宝皇女が皇極天皇(在位642~645年)になったことになっていますが、この間の実際の天皇は蝦夷(622~645年)と入鹿(645~649年)だったのですから、田村王も宝皇女も天皇になったことはありません。
そもそも「田村王」は天皇の孫ではないのですからこの人は「王」ではありませんし、「宝皇女」も天皇の娘ではないのですから「皇女」ではありませんし、二人とも天皇にはなっていないのですから、中大兄皇子も天皇の子である「皇子」でも皇太子である「大兄」でもなかったのですよね。すべては、クーデターで王位に就いた天智天皇を正当化し,正統な皇嗣に仕立て上げるための作り話なのです。
最近は、645年の事件は「改新」ではなく「政変(クーデター)」だったとの見方が増えてきたようで、645年の「大化の改新」は、干支から「乙巳の変」と呼ばれるようになっているようですが、この「蘇我入鹿が殺されたのは645年」というのもウソで、実際にクーデターが起きたのは、石川麻呂が自害させられた(殺された)649年なのですが、649年の干支は己酉ですから、干支で言うなら「乙巳の変」ではなく、「己酉の変」ということになるのでしょうね(^o^)。