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「金印・志賀島・阿曇族」20 宮地嶽古墳9 高向王とは?

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2018.6.22 「金印・志賀島・阿曇族」20 宮地嶽古墳9 高向王とは?
 
『記紀』は応神系の大王を隠すために、5世紀の応神天皇(余昆)を3世紀の「架空の神功皇后」の子であるとし、その息子のウジノワキノイラツコは「架空の仁徳天皇」に位を譲るために自害してしまったというオハナシを作り、応神天皇の孫の欽明天皇は継体天皇の子だったことにし、欽明天皇の子の用明天皇の在位期間には架空の敏達天皇(天智の曽祖父)が在位していたことにして、用明天皇は架空の聖徳太子の父で、即位して2年で死んでしまったことにしたのです。
 
そして、馬子の父として蘇我稲目を作り、用明天皇の子・孫・曾孫は稲目の子孫で大臣の蘇我馬子・蝦夷・入鹿だというウソ八百のオハナシを作ったのですね。だから蘇我氏は6世紀に突然登場してきたのであって、葛城氏が蘇我氏になったのではありません(^o^)
 
宝(皇女)は田村(王)とは再婚で、初めに天皇の孫の高向王に嫁して一子を産んだと記されているそうですが、『記紀』を信じる学者さんたちにはこの「高向王」とは誰のことなのかが分からないので、これまでいろいろなつじつま合わせのオハナシ(解釈)をひねり出してきたようです(^o^)
 
この高向王とは、河内長野の高向を領地としていた馬子(=アメノタリシヒコ)の息子の蝦夷(=倉麻呂)のことであり、高向王の祖父の天皇とは用明天皇(=蘇我稲目)のことなのです。天皇の孫だから蝦夷は「」だったのですが、この時に高向王・蝦夷と宝の間に生まれた子が大海人皇子(後の天武天皇)なのです。
 
つまり天武天皇と天智天皇は母が同じで父の違う異父兄弟で、天武が4歳年上の兄だったのですが、『日本書紀』は二人が田村と宝の子で、天智が兄で天武が弟だとウソを書いたのです。そのために天武天皇の没年とその時の年齢から計算すると、どうやっても弟のはずの天武天皇の方が兄のはずの天智天皇より年上になってしまって『記紀』を信じる学者さんたちを悩ませてきたようです。
 
まあ、そういう場合には「書き間違いだとすればよい」としてつじつまを合わせてしまうのが学者さんたちの常套手段のようですが(^_-)
 
蝦夷が宝と結婚した頃には祖父の用明天皇(稲目)が大王(天皇)だったので、その孫の蝦夷は「王」だったのですが、その後蝦夷が大王(天皇)になったので、蝦夷の子は「王(皇)子」になったわけですね。けれど跡継ぎの大兄皇子(太子)になっていたのは、蝦夷の正妃の子である異母兄の入鹿(石川麻呂)だったのです。
 
ですから、大王(天皇)になった蝦夷の子の入鹿(石川麻呂)と大海人皇子は本当に「王(皇)子」だったのですが、天皇になっていない田村の子の中大兄皇子は皇子でも大兄でもなかったのです。
 
けれど「用明天皇の代わりに曽祖父が(敏達)天皇だったことにする」という工作によって、中大兄は天皇の直系の男子だったことになり、
 
敏達(天皇)―押坂彦人(大兄皇子)―田村(王)―葛城(=中大兄=天智)
 
さらに父の田村を(舒明)天皇に仕立てたことによって「皇子」だったことになり、そのうえ天武の兄で舒明の長子だったとすることによって「大兄皇子」だったことにできたわけです(^o^)。天智を天武の兄と偽ったのはそのためでしょう。
 
2010年までにそのように推理して、それを2011年に「代の地形から『記紀』の謎を解く」に書いたので、2012年にそれらの推理を確認するために大阪探訪に出かけ、河内長野の高向にも行ったのですが(^o^)、初めての大阪では多くの発見があったため、「大阪探訪記」は高向まで行きつかないうちに別の方向に逸れていったままになってしまっているのですよね(^_-)
 
高向神社
 
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