蝦夷の領地だった河内長野の高向は石川の上流域にあるのですが、その下流の大阪府羽曳野市には、応神系王族の祖である「応神天皇(=百済の王族・余昆)」を祀る飛鳥戸(あすかべ)神社と飛鳥千塚古墳群がありますから、石川流域は応神系王族の本貫の地だったようです。
飛鳥戸神社
↑には、百済の昆岐王(こんきおう)を祖神(おやがみ)とする百済系飛鳥戸連の一族は雄略期に渡来したという伝承があると記されていますが、雄略天皇は『日本書記』が作った架空の人物で実際は応神天皇の時代であり、462年に渡来してきたのは、ここに祖神として祀られている百済の昆岐王その人なのです。
この昆岐王(こんきおう)とは、462年に東漢氏(やまとのあやうじ)を引き連れて渡来してきた百済の21代蓋鹵王(余慶)の弟の余昆で、464年に王位に就いて506年まで大王(天皇)として在位していた「倭王・武」のことであり、この「倭王・武」の諡号が「応神天皇」なのです。
その推理は「古代の地形から『記紀』の謎を解く」の「謎の倭の五王を推理する」をご参照ください。
蘇我氏という名前は8世紀に『日本書紀』が作ったものであって、蘇我氏が改姓して石川氏になったのではありません。
石川流域を地盤としていた応神系王族は、もともと「石川の〇〇」、つまり「石川氏」だったのです(^o^)。「百済系飛鳥戸連の一族」というのは応神系の王族のことで、石川氏のことでしょう。
この時代に「姓(せい)」というものはなく、この時代の「姓」とは身分や役職をあらわす「カバネ」であって、人は支配地の地名やカバネで「○○の誰それ」と呼ばれていて、支配地や役職が変わると「○○」の部分も変わっていたのですが、やがてそれが固定した「氏の名」や「姓(せい)」になっていったのです。
例えば、物部石上麻呂(もののべのいそのかみのまろ)は「物部(もののべ)という武具(もののぐ)や武士(もののふ)を統括する部(べ)、つまり軍部に属する武官で、石上を領地としていた麻呂(男)」という意味で、「物部」は役職であり「石上」は地名であって「姓(せい)」ではないのですよね。
この人は、カバネが連だった時には「物部連(もののべのむらじ」、カバネが朝臣に変わると「物部朝臣(もののべのあそん)」と呼ばれていたようで、左大臣になってからは「物部」ではなくなったので「石上朝臣(いそのかみのあそん)」と呼ばれていたようです(^o^)。
実は、姓や名前について考え始めたのは、2010年にサッカーのワールドカップを見たことがきっかけでした(^o^)。それまであまりサッカーには興味がなくて選手の名前も知らなかったのですが、たまたま見たクロアチアの試合で、アナウンサーが「〇〇ビッチ」と連呼しているのを聞いて出場選手名を見てみたら、ほとんどの選手が「○○ビッチ」という名前だったのです。
そこで「ビッチ」ってどういう意味なのだろう?と調べてみたら、「○○の息子」という意味だということが分かり、そこから、○○イッチ、○○ソン、○○セン、Mc○○などもみな「○○の息子」という意味であることが分かってきて、名前や姓の成り立ちの法則のようなものが分かってきたのです。
2018年の今も、ちょうどワールドカップの真っ最中ですが、アイスランドの選手は、23人中22人が「〇〇ソン」という名前なのだそうですよ(^o^)。