入鹿の別名の「石川麻呂(いしかわのまろ)」は、入鹿が応神系の王族であったことを、万葉歌人の「石川郎女(いしかわのいらつめ)」は、この女性が応神系王族の娘であったことを示しているのであって、個人の名前ではないでしょう。
万葉歌人に関しては、文字を知らない庶民が歌を詠んだり、ましてやそれが万葉集に採られたりするなどということはあり得なかったのですし、この時代は諱(いみな・実名)を公表することはなかったようですから。
文武天皇の妃となって二人の皇子を生んだ石川刀子娘(いしかわのとねのいらつめ)も個人名ではなく、この女性が応神系の王族の娘であることを、もう一人の妃であった紀竈門娘(きのかまどのいらつめ)も紀氏一族の娘であることを示しているのです。
応神天皇(余昆)の渡来(462年)以前の天津族の東征の時(4世紀)には日本にいた紀氏は、崇神系の王族だったようですね。天皇妃が生んだ子は次の天皇になるかもしれないのですから、実名よりなにより「出自」が最重要だったわけです(^o^)。
↑の考察をしていた時も、「石川刀子娘は妃ではなく嬪」というコメントをいただきましたが、この王族出身の二人の妃は、藤原氏の謀略によって「夫人」より格下の「嬪・ひん」に降格され、その息子たちは臣下の朝臣に降格されて皇位継承権を奪われたため、文武天皇に「妃」はいなかったということになっているようです。
『記紀』は一事が万事こんな調子で作り話の「ウソばっか」なのですが<(_ _)>、宮内省の神祇官たちは明治時代にその『記紀』の作り話に合わせて「虚偽の国家神道」をデッチあげ、築造時期のまるで合わない古墳を架空の天皇墓に治定したり捏造したりしたうえ、そのウソがバレないようにそれらの古墳を囲い込んで一切の立ち入りや調査を禁止したのです。
なにしろ、古墳時代よりはるか以前の紀元前660年に即位したということにした「神武天皇の古墳」まで造ってしまい、3世紀に築造された箸墓古墳は「紀元前の倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)のお墓である」とするなど、メチャクチャな治定をしているのですから、調査などさせるわけにはいきませんよね(^_-)
紀元前の第7代孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫のお墓だということにしている古墳時代の「箸墓古墳」
そして歴史学者さんたちは、それらのウソを丸ごと信じて非論理的な論法を使ってせっせとつじつま合わせに励み、私たちは教科書に記されたそんな非論理的なつじつま合わせの産物に疑問を持つこともなくただひたすら信じて(信じさせられて)きたのですから<(_ _)>、それこそ、チコちゃんに「ぼ~っと生きてんじゃね~よ!」と叱られてしまいますよね(^_-)。