菖蒲池古墳の石室には石棺が二つ入れられていたということを知って、私は649年に山田寺で自害した(殺された?)大王・入鹿(=石川麻呂)とその息子の太子・興志の棺ではないかと考えたのですが、入鹿と蝦夷の棺ではないかという説もあるようです。
菖蒲池古墳の石室
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よく見えなかったので、どんなものなのか分かりませんでしたが。
馬子・蝦夷・入鹿が大王であった痕跡を消すために、三つの陵の墳丘を跡形もなく崩したのに、蝦夷の石棺だけ菖蒲池古墳の石室に移したというのは不自然なような気もするのですが、蝦夷が自分と息子のために「双墓」を作った時、孫の分の棺までは造らなかったでしょうから、そうかもしれませんね。でも、『日本書紀』は作り話のオンパレードですから、検証もせずに誰の棺か決めることはできません。
今、ふと思ったのですが、生前にお墓を造るということは現代でもありますが、自分の棺はともかくとして、まだ若い息子の棺を造っておいたりはしなかったのではないでしょうか(^o^)。ひょっとすると、この二つの棺は、馬子と蝦夷の棺なのかもしれません。
というのは、2010年に初めて石舞台古墳に行った時、石室の中に棺がなく、外に置いてあった石棺は「石室内にあった破片から復元した」ものだと記されていたので、棺はどこへ行ってしまったのだろう?と疑問に思ったのです。もしその場で破壊されたのであれば、破片ではなく大きな石がゴロゴロしていたはずですものね。
石舞台古墳の石棺
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菖蒲池古墳の二つの石棺は、ともに凝灰岩の刳抜式の精巧な家形石棺で、棺内には漆が塗られており、ほぼ同じ形に仕上げられているそうですから、蝦夷が自分の棺も父・馬子の棺と同じように造らせたのかもしれませんね。
ところで、菖蒲池古墳の二つの石棺を「蝦夷と入鹿の棺」だとする説を唱えている方は、大規模遺構は「舒明天皇の初葬墓」ではなく「双墓」だとお考えなのでしょうから、『日本書紀』の記述はウソだと言っているのと同じなのですが(^_-)、その自覚はあるのでしょうか?それとも、単に「二つの棺があるのだからそう考えればよい」という程度のつじつま合わせなのでしょうか?
『日本書紀』は、政治改革を目指す中大兄(天智)によって大臣・入鹿は645年に殺され、蝦夷は自害したというオハナシを作っていますから、649年の実際のクーデターでは、この時の天皇は孝徳天皇だったことにし、実際の大王だった入鹿には「蘇我石川麻呂」という名前が使われていて、孝徳天皇は天智の母の弟(天智の叔父)だということになっています。けれど、直系の男子ではない天皇の妻が天皇になったり、妻の弟が天皇になったりするなどということはあり得なかったはずです。それは血統のみを根拠とする「王(天皇)制」というものを根底から否定することになるのですから。
歴史学者さんたちはこういうことを全く疑問には思わないようですから、『金印・志賀島・阿曇族』の著者が記しているように、本当に「歴史の考察というもの」は目先のつじつまを合わせるだけの気楽なもののようで、「ちがうだろ、ちがうだろ~~!」と言いたいことや、チコちゃんに「ボーッと生きてんじゃね~よ!」と叱ってもらいたいことだらけなのですよね<(_ _)><(_ _)><(_ _)>。
昨日は外出中に「群馬でM4.6の地震」という緊急速報があって驚いたのですが、今朝は大阪でM6.1の大きな地震が起きてしまいました。第一報では「津波の心配はありません」ということだったのでホッとしたのですが、時間が経つにつれて被害の大きさが分かってきたようです(T_T)(T_T)(T_T)。
この地震は、「有馬-高槻断層帯」が動いたことによるもののようですが、地震や噴火が頻発していることを考えると、やはりプレートの動きが激しくなってきているようです<(_ _)>。この断層帯は、「有馬温泉」という大いなる恵みの元でもあるのですが・・・・・