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「金印・志賀島・阿曇族」15 宮地嶽古墳4

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2018.6.17 「金印・志賀島・阿曇15 宮地嶽古墳4

 
天智天皇の御廟野古墳は一辺が70m以上もある方形壇に乗った八角形墳だということが分かったのですが、天智天皇の息子の大友皇子は天智天皇の死去後に起きた壬申の乱で敗北して自害してしまったのですから、父のお墓を造る時間はなかったのではないでしょうか?それでは御廟野古墳を造って天智天皇を手厚く葬ったのはいったい誰なのでしょう?
 
天智天皇は応神天皇の子孫ではないのですが、御廟野古墳は石舞台古墳に倣った八角形墳なのですから、この古墳を造らせたのは、天智天皇の異父兄の天武天皇だったのではないでしょうか。御廟野古墳のような大きな陵墓を、敗者の側が勝者側の眼を盗んでこっそり造ることなどできなかったでしょうから(^_-)
 
橿原考古学研究所は、甘樫丘で発見された遺構を「舒明天皇の初葬地」だとしているようですが、
 
イメージ 1

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舒明天皇が在位したとされている629641年は蝦夷が大王(天皇)であって、「舒明天皇」という天皇は実在しなかったのですから、この遺構は甘樫丘に宮を構えていた大王・蝦夷の陵墓の大陵であり、道を挟んで石室だけがむき出しになって残っている菖蒲池古墳は大王・入鹿の陵墓の小陵で、この二つの古墳が蝦夷が自分自身と息子・入鹿のために生前に築いたという「双(ならびの)墓」でしょう。
 
菖蒲池古墳 
イメージ 3

イメージ 4


そして、この墳丘が破壊されて形が分からなくなっている大規模遺構と菖蒲池古墳も、大王・アメノタリシヒコ(=馬子)の石舞台古墳に倣った方形の基壇の上に築かれた八角形墳だったはずです。
 

『日本書紀』はアメノタリシヒコを消して、用明天皇の息子として架空の「厩戸皇子」を創り、天皇は推古女帝だったことにして、政治をしていたのは「うまやどのみこ」と「うまこ」(どちらもアメノタリシヒコ)だったというストーリーを作り、そのウソのつじつまを合わせるために架空の天皇や人物をたくさん作ったのです。

 
けれど中国の記録には、「聖徳太子」の送った国書への答礼使として日本にやってきた隋の使者・裴世清が謁見したのは、女帝ではなく男王のアメノタリシヒコだったという記録が残ってしまったのですよね。「天網恢恢祖にして漏らさず」ということでしょうか(^o^)
 
『日本書記』には「聖徳太子」はいないそうで、「架空の厩戸皇子」が「聖徳太子」という名前になったのは、天平勝宝3年(751年)以降のようです。
 
そして、「聖徳太子」を利用したい人たちによって、「聖徳太子」はどんどん聖人化され、様々なエピソードやオハナシが作られていくつもの伝奇が作られ、「聖徳太子」は実在の人物として一人歩きを始めて信仰の対象にまでなっていったのですね。



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