Quantcast
Channel: 歴史探訪
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1389

「金印・志賀島・阿曇族」14 宮地嶽古墳3

$
0
0

2018.6.16 「金印・志賀島・阿曇14 宮地嶽古墳3

 
アメノタリシヒコ(=蘇我馬子)の墓(石舞台古墳)以降の天皇墓は八角形墳のはずなのに、明治・大正・昭和天皇陵は上円下方墳になっていますよね。でも、これは学者さんたちの勘違いと思い込みのせいなのです!
 
昭和天皇武蔵野陵 
イメージ 1

明治維新で武家から実権を取り戻した天皇家と公家は、明治天皇の陵墓を現天皇家の祖先である天智天皇の御廟野古墳に倣って同じように造ったのですが、御廟野古墳は明治時代には上円下方墳だと思われていたため、明治天皇陵は上円下方墳に造られてしまい、その後の大正・昭和天皇の陵も上円下方墳になってしまったのです。
 
けれど上円下方墳だと思われていた御廟野古墳は、197080年代の宮内庁の外形調査で下段が一辺70m以上の方形壇で、上部が八角形であることが判明したのですよね^_-)ですから、もしも明治時代に御廟野古墳が八角形墳だということが分かっていたなら、明治・大正・昭和天皇の陵は当然八角形墳になっていたのです
 
ということは、現在にるまで天皇陵の原型となっているのは石舞台古墳なのですからその古墳に埋葬された「蘇我馬子」は、『日本書紀』が記したような専横な大臣(おおおみ)などではなく、日本の本当の大王(おおきみ=天皇)だったということであり、自分の家を「宮門(みかど)」、子供を「王子(みこ)」、墓を「陵(みささぎ)」と呼ばせていたという蝦夷・入鹿も本当の大王(天皇)だったということなのです(^o^)

つまり、どうやってもつじつまを合わせることができないのは、学者さんたちが信奉してやまない『日本書紀』が、架空の天皇をたくさん作ってウソ八百のオハナシを並べ立てているからなのですよね(^_-)
 


Viewing all articles
Browse latest Browse all 1389

Trending Articles