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「金印・志賀島・阿曇族」13 宮地嶽古墳2

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2018.6.15 「金印志賀島・阿曇族」13 宮地嶽古墳2 
 
宮地嶽古墳に戻ります。宗像市にある宮地嶽古墳は、6世紀末から7世紀初めに造られた阿曇族の首長の墓ではなく、形も円墳ではなく八角形墳だろうと思います。
 
6.12に https://blogs.yahoo.co.jp/sweetbasil2007/43680198.html に「奈良県最大の前方後円墳である見瀬丸山古墳を作ったのは欽明天皇の息子で次の大王になったアメノタリシヒコ(=馬子=聖徳太子)です」と書いてしまいましたが、これは間違いで、アメノタリシヒコは欽明天皇の子ではなく孫でした。
 
『日本書記』が「敏達天皇の弟で、即位してたった2年で死んでしまった聖徳太子の父」と騙った用明天皇は、実際は欽明天皇の息子でアメノタリシヒコ(=馬子=聖徳太子)の父であり、571年から585年まで在位していた実在の大王であったことを2015年に突き止めていたことをうっかり失念してしまったのです<(_ _)>
 
見瀬丸山古墳を作ったのは、アメノタリシヒコではなく欽明天皇の息子の用明天皇で、用明天皇墓を作ったのが用明天皇の息子のアメノタリシヒコですねアメノタリシヒコが「薄葬令」を出したのは、父の用明天皇の墓を造るときだったのではないでしょうか。
 
学者さんたちは、石舞台古墳を上円下方墳だったとしていますが、石舞台古墳以降の天皇墓や王族の墓は、みな八角形墳になっていますから、その基準となった大王・アメノタリシヒコの石舞台古墳円墳ではなく八角形墳だったはずです。

これまでに、円墳だとされてきた古墳が実は八角形だったことが分かったというニュースがいくつかありましたが、奈良だけではなく、各地の王族の墓は好き勝手な形や大きさで作られていたわけではなく、大王(天皇)墓に準じた形や大きさで全国で同じように作られていたのですから、石舞台古墳以降に造られた王族の墓は、すべて円墳ではなく八角形墳であろうと思います。
 
アメノタリシヒコの孫の天武天皇と天武天皇の皇后だったアメノタリシヒコの曾曾孫の鸕野讚良王女(うののさららのひめみこ)の墓である野口王墓古墳も、この二人の子である草壁皇子の墓の束明神古墳も、大津皇子とその正妃で殉死した山辺皇女の墓である牽牛子塚古墳もすでに八角形墳だったことが分かっています。
 
野口王墓古墳
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束明神古墳
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牽牛子塚古墳 
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石舞台古墳の近くにある都塚古墳が「ピラミッド型」だったことが分かったというニュースもありましたが、これも実際は四角錐のピラミッド型ではなく、八角形墳なのではないででしょうか(^o^)
 
すると、都塚古墳はアメノタリシヒコが造った父・用明天皇の墓である可能性も出てきますね。用明天皇の宮が向原にあったことを考えると、都塚古墳の位置は不自然な気がしますが、もしこの古墳が石舞台古墳よりも後につくられたものであれば用明天皇の墓ではありえないわけですが、石舞台古墳よりも30年以上前に造られたものなのであれば、用明天皇の墓である可能性もありますね。
 
都塚古墳 
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イメージ 2


イメージ 3


ところで昨日 、黒い皮の「でんすけスイカ」の初セリがあって、今年は1玉55万円という値が付いたそうです。スイカも人も、天から降ってきたのではなく、アフリカからやってきたのですよね(^o^)


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