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「金印・志賀島・阿曇族」28 宮地嶽古墳17 屯倉

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2018.7.2 「金印・志賀島・阿曇族」28 宮地嶽古墳17 屯倉
 
楚の邑主というのも国司や藩主と同じように、決められた税を楚王に納めれば、それ以外はその邑主となった人の私有財産になったようですが、臣下が私有財産を持っていたように、王(天皇)家にも当然国家とは別に王家の私有地や私有財産があったはずですよね。そうでなければ、天皇が代わった時点で前天皇の大勢の妻子や使用人たちは路頭に迷ってしまいますものね。

古代に王(天皇)が代わると宮(皇居)の場所も代わっていたのは、そこがその王(天皇)の私有地だったからでしょう日本各地にあった直轄地の「屯倉(宮家)」もその時の王(天皇)の私有財産だったのではないでしょうか。
 

534年に「武蔵国造の乱」が起きた時、南武蔵の笠原小杵(かさはらのおき)と上毛野君小熊(かみつけののきみおぐま)に攻められた北武蔵の笠原使主(かさはらのおみ)は、大和朝廷に駆け込んで欽明天皇に訴え、それを受けて使主を武蔵国造と認定した欽明天皇は、ヲワケ臣の率いる朝廷軍を武蔵国に送りました。

 
これが531年の辛亥年には親衛隊長として磯城でワカタケル王欽明天皇)に近侍していたヲワケ臣の作らせた「金錯銘鉄剣」が北武蔵のさきたま古墳群の仲にある稲荷山古墳から出土した理由なのですが、『記紀』を信奉する学者さんたちは、「ワカタケル王は雄略天皇」で、「欽明天皇が即位したのは539年」だと信じ込んでいるため、「銘文の辛亥年は471年」だと考えてしまい、お得意の「・・・と考えればよい」という手法を使ってもどうしてもつじつまを合わせることができないので、そういう場合の常套句である「謎である」ということになっているようです(^_-)
 
金錯銘鉄剣 
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ワカタケル王が雄略天皇ではなく欽明天皇であること、この辛亥年は471年ではなく531年であることについては、「古代の地形から『記紀』の謎を解く」の第3章の「ヤマトタケルと欽明天皇とワカタケル王」をご参照ください。
 
この時欽明天皇が大和から送ったヲワケ臣の加勢によって小杵と小熊を下し、北と南を合わせた武蔵国の国造になることができた使主は、そのお礼として横渟・橘花・多氷・倉樔の4つの郡を屯倉として朝廷に献上したと記されていますが、これは、この戦いで使主が手に入れた「小杵の領地だった南武蔵」のうちの、後の「多摩(多氷・横渟)郡・橘樹郡・久良岐郡」を差し出したということであり、国にではなく欽明天皇個人に献上したということかもしれません。
 
この武蔵国造の笠原使主の「笠原」は地名で、笠原使主とは、笠原に宮を置いていた王族の「笠原臣」なのではないかと考えて行田の近辺を探してみたら、さきたま古墳公園の南東に鴻巣市笠原という地名が見つかりました\(^o^)/。ここには笠原小学校と笠原公民館がありましたから、この一帯に笠原使主の宮があったのかもしれませんね(^o^)
 
笠原公民館・笠原小学校
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先ほどのニュースによると、今日桂歌丸さんが亡くなったそうです(T_T)。昨日の夕方テレビをつけたら、ちょうど歌丸さんが写っていたので、体調が良くなったのかな?と思ったところだったのですが・・・・・
 
 

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