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「金印・志賀島・阿曇族」27 宮地嶽古墳16

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2018.7.1 「金印・志賀島・阿曇族」27 宮地嶽古墳16
 
「呉」と言えば、私は「呉」には紀元前の呉と紀元後の呉があるということが分かっていなかったのですが<(_ _)>、『新撰姓字録』に身狭村主青(むさのすぐりあお)は「呉の孫権の子孫」だと記した人たちも分かっていなかっのかもしれませんね。「(架空の)雄略天皇が5世紀に身狭村主青を呉に遣わした」などとあり得ないオハナシを作ってしまっていますから、三国時代の呉が280年に滅びてしまっていたことも知らなかったようですし。ひょっとすると分かっていてウソを書いたのかもしれませんが(^_-)
 
この古代日本の姓(かばね)の一つだという「村主」ってどういう意味なのだろう?と思っていたのですが、邑は「むら」ですから、「村主」とは「邑主」のことで、紀元前の呉の国で食邑を持っていた王族か貴族のことなのかもしれませんね。『新撰姓字録』は王族・貴族(支配者階級)の身分のもとになる出自を記したものであって、庶民(被支配者階級)のことなど記してあるはずはないのですから(^o^)
 
「村主」は、王族・貴族ではあるけれど天津族の王族・貴族ではなく、呉国の海人族出身であるということを示すためのカバネなのかもしれません。
 
古代のことを日本の中だけで考えたり、つじつまを合わせようとしたりすると理解できないことも多いのですが、視野を広げれば、「村主」とは「邑主」かもしれないというようなヒントや関連が見えてくるのです(^o^)。紀元前800年頃から、中国や朝鮮半島から渡来し始めていた人たちは、言葉や文字や文化や習慣をそのまま持ち込んでいたはずなのですから。
 

例えば、『魏志倭人伝』には「一大率(いちだいそつ)」というものが出てきて、これが何なのかが分からないようですが、これは官職名だろうと私は思います。天津族は百済の王族なのですが、百済には達率(たるそつ・二品官)・恩率(おんそつ・三品官)・徳率(とくそつ・四品官)・扞率(かんそつ・五品官)・奈率(なそつ・六品官)という官職があったようですから、似たような組織ややり方や名前を持ち込んでいたのではないでしょうか(^o^)

 
百済の第25代の王である武寧王(ムリョンワン)は応神天皇(余昆)の長子の斯麻(余隆)なのですしね(^_-)
 
呉王・闔閭とその子夫差に仕えた伍子胥は、もとは呉の人ではなく楚の人で、楚の国の重臣の次男であり、伍子胥の兄の伍尚は食邑として楚の「堂」の地を与えられ、その邑主になっていたそうですが、邑主というのは楚王の臣下であってその邑の統治者だったのですから、律令制下の国司や徳川政権下の藩主のようなものでしょうか。律令制の頃は、そのものずばりの武蔵国、吉備国などの「○○国」でしたし、藩になってからも城持ちの大名は「一国一城の主」と言っていましたものね。

伍子胥と兄が生まれたのは↓の地図の左端の楚の首都の郢(えい)なのですが、食邑の堂は地図の右端の江水の河口に近いところなのですから、その距離は「半端ない」ですよね~。

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使者の行き来も、スパイの活動も、戦う兵の移動も、何百kmという道のりが普通だったようですから、ものを考える尺度もずいぶん違っていたのでしょうね。



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