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「金印・志賀島・阿曇族」29 宮地嶽古墳18

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2018.7.3 「金印・志賀島・阿曇族」29 宮地嶽古墳18
 
笠原使主の宮は、鴻巣市の笠原小学校の辺りにあったのではないか?と考えて2013年に鴻巣市に行ってみたのですが、その辺りは田園地帯で6世紀に宮が造られた場所としては低すぎるような気がしました。けれどこの小学校が「ひなん場所」に指定されているということは、この一帯は周りに比べて小高くなっているということでしょうか?
 
さきたまに「津」があった67世紀には、水上交通の便の良かった行田市や鴻巣市の辺りが北武蔵の中心地だったようで、行田市にはたくさんの大型の古墳がありますし、鴻巣市には東国最大級の生出塚(おいねづか)埴輪窯などの埴輪窯があり、この一帯だけではなく千葉から神奈川の方にまで広く埴輪を供給していたのだそうです。
 
生出塚(おいねづか)埴輪窯 
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さきたま古墳群の石室には、房総の鋸山から運んできた房州石が使われていましたから、埴輪を積んで房総に行った船が、帰りには房州石を積んできていたということでしょうか(^o^)
 
鋸山の房州石  
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その後、武蔵国造の乱を経て北武蔵と南武蔵が統合されて武蔵国となったうえ、海退によって北武蔵は水上交通に不便な内陸になってしまったため、律令時代になると国府は武蔵国(秩父~横浜)の中央で船の便も良い多摩川沿いの台地の現・府中市に置かれそれ以降は王族の墓である古墳も府中市の方に造られるようになりました。
 
府中市に復元されている熊野神社古墳
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私は、↑の復元は学者さんたちの思い込みによる間違いで、この古墳は下方上円墳ではなく、下方上八角形墳だったはずだと思いますが(^_-)
 
多摩丘陵については、私は「ニュータウン」という言葉しか知らなかったので、それまではあまり人が住んでいなかった丘陵地を拓いて造られた新しい町なのだろうと思っていたのですが、多摩丘陵には縄文時代から古墳時代にかけてのたくさんの遺跡や古墳があって、多摩丘陵は旧石器時代から多くの人が住んでいた古代の人口密集地だったようです(^o^)
 
考えてみれば、さきたまに津があった6世紀頃までは、現在の関東平野はまだほとんどが海や湿地で、多摩川の左岸の台地と右岸の多摩丘陵がウォーターフロントだったのですから、遺跡や古墳の密集する多摩丘陵は「ニュータウン」どころか、古代から多くの人が住んでいた「オールドタウン」だったようですが(^_-)、海退によってウォーターフロントが遠のき、平地が増えるに従って丘陵地は過疎化していったのでしょう。
 
その後人口が増え、平地が過密になって地価が高騰すると、丘陵地が宅地開発されて高級住宅地になっていったようですが、今日の新聞によると人口減や高齢化で、坂が多くて不便な丘陵地は敬遠され始めているようです。行きつ戻りつですね。

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