多摩市の小野神社
真っ赤な(ペンキ?)拝殿と本殿
随神門
一之宮、二之宮・・・といった神社の序列は、その祖廟を祀っていた氏族の勢力で決まっていたようで、武蔵国には六之宮まであるのですが、多摩の小野神社が武蔵国の一之宮になっていたのは、律令制が敷かれて一之宮が定められた頃には、多摩郡が武蔵国の中心で小野神社を祀っていた氏族が一番勢力を持っていたということなのでしょうね。
ちなみに今一番羽振りがいいのは、当時は三之宮だった大宮氷川神社で、現在はこちらが「武蔵国一之宮」を称しています。
現在の武蔵国一之宮 大宮氷川神社
多摩丘陵には王家の牧場である「御牧」が置かれていたそうで、多摩郡には大きな石室を持つ古墳がいくつもありますから、この地の支配者として王族もたくさん来ていたようです。
古代の武蔵国の一之宮だった小野神社の祭神は「小野大神」ですから、武蔵国造となった笠原使主から欽明天皇に献上されて屯倉になっていた多摩郡には、小野妹子の子孫が来ていたのかもしれません。小野氏と「小野同族」と呼ばれる人々は応神系王族と関係が深く、特に小野妹子は欽明天皇の息子のアメノタリシヒコに重用されて二度の遣隋使を務め、アメノタリシヒコが定めた「冠位十二階」の最上位の大徳になっていたのですから。
朝廷で最高の冠位を得ていた小野妹子は当然王族だったのです。敏達天皇は、実際は天皇にはなっていませんし、妹子は崇神系の王族ではありませんから、妹子が敏達天皇の孫の「妹子王」であるという系図はウソのようです(^_-)。
近江の小野神社にあった妹子の系図
この系図は、明治時代に作られたようですから、神祇官がデッチ上げたもののようです。
妹子は、応神天皇が太子のウジノワキノイラツコの教育のために百済から招聘した百済の王族・和邇吉師(王仁博士)の子孫で、和邇吉師(王仁博士)は、やはり百済の王族だった阿知使主(阿知臣・阿知吉師)の推薦によって招聘されたようですが、「小野同族」「和邇同族」は毎年祭祀のために小野神社に集まっていたそうですから、和邇吉師と阿知吉師は祖を同じくする同族だったようです。
『記紀』を信奉する学者さんたちは、応神天皇は3世紀の人で、応神天皇が百済から招聘した王仁博士は、「(6世紀初めに作られた)千字文」を持って3世紀に渡来したなどというあり得ないオハナシを信じているようですが、応神天皇も、王仁博士も、太子のウジノワキノイラツコも、阿知使主も5~6世紀の人です。
そして、欽明天皇は継体天皇の子ではなくウジノワキノイラツコの子であり、応神天皇がわが子のために百済から呼び寄せた和邇吉師と阿知吉師の薫陶を受けていたウジノワキノイラツコが仁徳天皇に位を譲るために自害してしまったなどというオハナシは真っ赤なウソなのです。そもそも仁徳天皇は架空の人物なのですしね。