↑には、小野神社は妹子・篁・道風ら小野氏の「氏神社」であると記されていますから、小野神社は小野氏、ひいてはここに集まって祭祀をしていた「小野同族」「和邇同族」の人々の祖廟だったということですね。朝廷からは、その祭祀に集うため都から近江に向かう小野同族・和邇同族の人々の便宜を図るための特別な詔勅まで出されていたそうです。
↑の考察をしていた2013年には、『記紀』はウソが多いようだと思ってはいたのですが、まさかこれほどにウソと作り話ばかりだとは思ってもいませんでしたし、神社にあった系図が明治時代に作られたものだとは夢にも思わなかったので、「小野同族」「和邇同族」の人々が「天足彦国押人命」の子孫の「タガネツキノミコト」を祖先として祀っていたのであれば、「タガネツキノミコト」とは和邇吉師のことなのかもしれないと考えたのですが・・・・・<(_ _)>。
でも納得できないことは山ほどあったのですよね。崇神系の王族と応神系の王族は、王位を争う内乱を繰り返していたのに、崇神系の敏達天皇の孫の「妹子王」は、なぜ応神系の欽明天皇の息子のアメノタリシヒコに協力的だったのだろう?とか、応神系のアメノタリシヒコはなぜ、崇神系の敏達天皇の孫の「妹子王」に破格の厚遇をしたのだろう?とか、妹子はなぜ自分の祖先を架空の第5代考昭天皇の第一皇子の「天足彦国押人命」などという架空の人物として祀ったのだろう?とか・・・・・・
2012年に近江に出かけてから2018年の今日までに、敏達天皇という天皇はいなかったことや、妹子は敏達天皇の孫ではないこと、小野神社の系図は明治時代に作られたものであることなどいろいろなことが分かってきました。納得できなかったことは全てウソと作り話だったのです。
↑には、小野神社は推古天皇の時代に妹子が創建したと記されていますが、推古天皇も架空の天皇で、この時代の本当の大王は応神天皇の孫のアメノタリシヒコ(=馬子=聖徳太子)だったのですから、これは、応神天皇に招聘され、皇太子・ウジノワキノイラツコの師として厚遇されていた王仁博士の子孫の小野妹子が、応神天皇の孫のアメノタリシヒコに協力し、その功で「大徳」という朝廷の最高位を与えられて一族の祖を祀る祖廟を自分の領土(食邑)だった小野の里に造ったというごくまともな話であって、朝廷は小野の里の祖廟に集う「小野同族」「和邇同族」の人々に配慮して便宜を図っていたということでしょう。
小野の里には、妹子が祖先を祀った小野神社の他にも妹子を祀る妹子神社、篁を祀る篁神社、道風を祀る道風神社、妹子の墓の唐臼山古墳などがありましたが、他人の領土(食邑)にそんなものを造ることはできませんものね(^_-)。