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「金印・志賀島・阿曇族」24 宮地嶽古墳13

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2018.6.28 「金印・志賀島・阿曇族」24 宮地嶽古墳13
 
また地球の歴史に行ってしまいましたが、ニンゲンの歴史に戻ります(^o^)
 
飛鳥の大王だったのに、なぜ舒明天皇はわざわざ飛鳥から離れた忍阪に改葬されたと記されているのだろう?と疑問に思っていたのですが、『日本書紀』が「舒明天皇になった」と記した天智の父の「田村王(皇子と書いてあるものもありますが)」は、天皇の直系の子の「皇子」でも直系の孫の「王」でもなかったこと、その在位期間とされている629641年は蝦夷が飛鳥で大王として在位していた期間であって、田村は天皇にはなっていなかったことが分かりました。
 
甘樫丘で発掘された遺構は、橿原考古学研究所の見解のような「舒明天皇の初葬墓ではなく、飛鳥の本当の大王だった蝦夷の大陵であり、その形状は石舞台古墳に倣った下方上八角形墳でしょう。
 
それでは、飛鳥の天皇だったことにした「舒明天皇」の墓はなぜ飛鳥ではなく忍坂に造られたのでしょうね?初葬地はどこで、どこから忍坂に移されたことになっているのだろう?と思ったのですが、『日本書紀』には初葬地がはっきりとは記されていないそうで、そのため「甘樫丘の遺構は舒明天皇の初葬地だと考えればよい」というような非論理的なつじつま合わせになっているようです。
 
2015年に↑の考察をした時に、蝦夷・入鹿が住んでいたという甘樫丘に赤の他人の「舒明天皇」のお墓が造られたというのはおかしいのではないかと思ったのですが(^o^)、忍坂もそこが他人の領地だったのであれば、そこに南北約80m、東西約110mもあるという大きなお墓(段ノ塚古墳)を造ることなどできなかったでしょうから、そのお墓が造られた辺りは王族の田村(王)の領地だったのではないでしょうか?
 
甘樫丘  左下は「入鹿の首塚」
イメージ 1

甘樫丘 右下は飛鳥寺
イメージ 2

甘樫丘の麓に大王・アメノタリシヒコが造った日本初の本格的寺院・飛鳥寺(復元図)
イメージ 3

 
私は「段ノ塚古墳」には行ったことがないのですが、「南北約80m、東西約110m、八角墳丘部の対辺間の距離は約42m、高さは約12mで、全長24m前後の超大型横穴式石室を持ち、3段築成の方形壇の上に平面が八角形で2段築成の墳丘のある、当時としては最大級の規模の古墳」なのだそうです。この形でこの大きさは、天皇墓以外には造れませんよね。19mの石室を持つ石舞台古墳よりも大きいのですから。

 
でも謎ではないのですよね(^_-)こんな大規模なものを造れたとすれば、墓が造られた忍坂の辺りは田村(王)の領地であり、641年に亡くなったこの人は、自分の領地に王族の一人として葬られていたのでしょう。

ところが、8世紀になって『日本書紀』が天智天皇を正統な皇嗣に仕立てるために「天皇の子である皇子」だったとするオハナシを作ったので、その父である田村(王)は天皇でなければならないわけですが、天皇が普通のお墓に入っていることはありえませんから、ここにあった既存の「田村(王)」の墓を8世紀に当時最大規模の八角形の天皇墓に作り変えたということでしょう。
 
つまり、『日本書紀』に初葬地が記されていないのは、もともと初葬地がそこだったからで、「改葬」とは墓を別の場所に移したということではなく、普通の王族の墓だったものを大型の下方上八角形の天皇墓に造り変えて埋葬しなおしたということでしょう(^o^)
 

また、この人が「田村王」、その母が「田村皇女」という名前で記されていることからみて、忍坂のこの辺りは「田村」という地名だったのではないでしょうか?古い地名か字名が「田村」だったかどうかは確認できなかったのですが、この「田村」が地名であることは多分間違いないだろうと思います。 

 

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