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「金印・志賀島・阿曇族」25 宮地嶽古墳14

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当時の最大級の古墳だという「段の塚古墳」が忍坂に造られたことについて、他人の領地に巨大なお墓を造ることなどできたはずはないから、忍坂の辺りは「王族の田村(王)」の領地だったのではないかと書きましたが、先日「呉越春秋時代」を舞台にした小説『湖底の城』を読んでいたら、「食邑(しょくゆう)」という言葉が出てきました。
 
私は、「宮地嶽古墳について、福岡市博物館で購入した「金印・志賀島・阿曇族」で先日初めて知ったのですが、
 
「金印・志賀島・阿曇族」
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今回は福岡市から古代の伊都国のあった糸島市の方に行き、宗像市へは行かなかったので、「宮地嶽古墳」に関する資料があるかな?と近くの図書館に行ってみたのですが、福岡について調べている人が他にもいたようで、図書館には福岡の地理・歴史に関するものだけが1冊もありませんでした<(_ _)>。がっかりしながら他の棚を見ていたら小説の棚に『湖底の城』があったのです。
 
実は以前穂高神社を調べていて、宗像氏安曇氏は海人族であること、海人族とは呉の国から渡来した人達だということが分かったのですが、中国の歴史をよく知らなかった私は「呉越時代」の呉と「三国時代」の呉の区別がついていませんでした<(_ _)>
 
その後、宗像氏は紀元前の呉越時代の呉の人であることが分かってきたので、もし宗像氏が呉越戦争に敗れて渡来した呉の王族であるのなら、孫武やその子孫もともに日本に来ていたかもしれないと考え、
 
孫子とその時代のことを知りたいと思っていたのですが、たまたま手に取った『湖底の城』の表紙に「呉越春秋」と書いてあったので借りてみました。その中に「食邑」が出てきたのですが、古代の王族や貴族は、それぞれの身分や手柄などに合わせて生活の基盤となる領地を与えられ、それを「食邑」と言っていたようです。その「食邑」が大きく豊かであれば、その邑主となった人は豊かになるわけですね。
 
考えてみれば、王族・貴族とは自分では働かない搾取階級なのですから、搾取する相手がいなくては贅沢をするどころか食べることもできないわけですよね(^_-)。王族や貴族がそれぞれ与えられたり所有を認められたりしていた土地が食邑であって、そういった食邑が呉越春秋時代に何百も林立していた小国だったようで、始皇帝が全土を統一するまでの大国とは、それらの小国の盟主というような立場だったようです。
 
邪馬台国の卑弥呼が北九州の三十数か国の盟主になっていたのも、大国主が九州から福島・新潟辺りまでの国主(王)の盟主である大国主(大王)だったのも同じようなシステムだったのですね(^o^)。クニや統治といったシステムを作っていたのは、旧石器時代から日本に住んでいた縄文人ではなく、紀元前に中国や朝鮮半島から渡来し始めた弥生人だったのですから。
 
春秋時代の国々
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たくさんの国があり、それぞれの国の中に王族や貴族の食邑である小国があったようです。
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ここには隋や唐も記されていますが、これらの国も元は楚の国の中にあった小国だったということなのでしょうか?
 
このことから考えても、他の人の領土(食邑)に自分のお墓を造ったりできたはずはありませんから、甘樫丘の遺構が舒明天皇の墓」である可能性は100%なく、田村(王)の墓が造られた忍坂は田村(王)の領土(食邑)だったのだろうと私は思います (^o^)

ところで昨日のポーランド戦の戦術については、いろいろな批判もあるようですね。このところ『湖底の城』8巻を読んでいた私は、「ああこれは勝つためには何をすればいいかという孫子の兵法のようだ。」と思い、徹底的な情報収集と相手チームの分析をしていることを知って、ひょっとすると西野監督は孫武の子孫なのかもしれない」と思ったのですが・・・・・(^o^)


 

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