2018.6.13 「金印・志賀島・安曇族」12 韓と漢
林立していた30余国もの小王国を滅ぼして九州を統一した天津族は、この戦いでの勝利に大きく貢献した論功行賞として、海人族の各氏族を天津族の朝廷で高官に取り立てたようです。
古文献には宿禰の阿曇族が数々登場しているそうですし、住吉族は港を守る「津守」の宿禰になったようですし、7世紀には阿曇族の阿曇比羅夫が朝廷の重臣・(26階中8位の)大錦中となって百済再興の大将軍になっていますし、宗像族の宗像徳善の娘の尼子娘は大海人皇子(後の天武天皇)の妻になっていますから。
天津族が王族間のみで婚姻を繰り返していた中で、海人族の宗像徳善の娘の尼子娘が天津族の大海人皇子の妻になれたのは、宗像氏が呉の王族の末裔だったからでしょうか?
血統のみが身分の根拠だったのですから、出自や血統は厳格に守られていたのです。たとえば、もしも尼子娘が生んだ子が天皇になってしまえば、宗像氏が天皇の外戚となり、権力は海人族の宗像氏に移ってしまうわけですから。これが天武天皇の長子であって、優れた資質を持つ壬申の乱の最大の功労者であり、吉野の盟約で皇位継承第3位になっていたにも関わらず、高市皇子が天皇になれなかった理由であって、長屋王をはじめとして高市皇子の子孫が朝廷からいなくなるまでことごとく藤原氏に謀殺された理由の一つでしょう。
ですから、すべての身分の基である出自や血統は、いろいろな形で厳格に記されているのです。尼子娘や大海人皇子は実名ではなく、「尼子娘(あまこのいらつめ)」は「海人子娘」で海人(あま)族の出自であることを、大海人皇子(おおあまのみこ)はその海人族と関係の深い皇子であることをこの名前で表しているのではないでしょうか。大海人皇子は、別のところには「漢皇子(あやのみこ)」と記されていますから。
ところで、宮地嶽神社の案内を見て「おや?」と思ったのですが、この神社は海に面した巨大なオニギリ型の標高180mの宮地嶽の中腹にあって、この山の別名は「漢国嶽(からくにだけ)」なのだそうです。
実は、歴史探訪を始めたころ、私は「漢」と「韓」の区別が分からなかったのです<(_ _)>。「漢王朝」といえば、中国の前漢(紀元前206年~ 8年)と後漢(25年~ 220年)のことで、「倭奴国王」は後漢の武帝に朝貢して金印を貰ったのですよね?
ところがその頃の朝鮮半島の南部には馬韓・辰韓・弁韓の三韓があり、これは韓民族のクニグニだったのだそうです。韓民族とは中国からやってきた漢民族のことなのか、全く別な系統の民族のことなのか・・・・・???
大雑把には馬韓が後の百済に、辰韓が新羅に、弁韓が加羅諸国になり、加羅諸国は6世紀の善徳女王の頃に新羅に併合されて消滅してしまったのですが、民族的には、みな「韓民族」のようです。
庶民は文字を知らなかったのですから言葉は音(おん)で伝えられ、その音(おん)には、例えば「あづみ」には安曇・安積・阿雲・阿積などの表記があり、「むなかた」には胸形・胸肩・宗形・宗像などの表記があるように、その音(おん)に合う文字がいろいろ使われていたようです。基本的に意味は音(おん)の方にあって、使われている文字自体には意味はないようだと考えていたのですが、「漢」と「韓」に関しては、中国に関するものは「漢」、朝鮮半島に関するものは「韓」と使い分けられているような気がしていたのですよね。
スサノオの息子の五十猛命を祀る神社は「韓国伊太氐(いたて)神社ですし、天津族が「天孫が降臨した」というオハナシを作った霧島連山の最高峰も「漢国嶽」ではなく「韓国岳」ですし(^o^)。
出雲の韓国伊太氐神社
「漢」を調べてみるとこの文字は「中国本土。また、中国本土古来の民族。中国に関することがら」を表しているそうです。すると、大海人皇子の別名の「漢皇子」も中国(呉の海人族)と関係のある皇子であることを表しているのかもしれませんね。