2018.6.12 「金印・志賀島・阿曇族」11 宮地嶽古墳
この「金印・志賀島・阿曇族」には、「国宝20点を含む豪華な副葬品が出土した宮地嶽古墳の石室は6世紀末から7世紀初めに築造されたもので、従来は宗像族の栄光を体現したものとされてきたが、実はこの遺跡の被葬者は阿曇族の首長たちである」と記されていたのですが、それは違うのではないでしょうか。
宮地嶽古墳の石室は22mもあり、見瀬丸山古墳の石室に次ぐ大きさで、石舞台古墳の石室の20mよりも大きいのだそうで、見瀬丸山古墳の石室は宮内庁によって立ち入りが禁止されているため、人が立ち入れる石室としては日本最大なのだそうです。
これはこの古墳の石室の大きさはその当時の天皇墓と同等だということのようですし、この古墳からは金銅製の冠も出土しているそうですから、この古墳の被葬者は王族か、天皇にごく近い人だということなのではないでしょうか。
けれど、磯良舞を残した3世紀の阿曇磯良は芸能に長け、現代の能楽に連なる舞の元祖なのだそうですし、7世紀の阿曇比羅夫は武人で大将軍だったのですから、冠をつけるような王族ではなかったようです。宮地嶽古墳の被葬者は阿曇氏ではないでしょう。
また、この天皇墓にも匹敵するような宮地嶽古墳は、前方後円墳ではなく円墳だそうですから、この古墳は6世紀末から7世紀初めに築造されたものではなく、早くても622年以降に築造されたものでしょう。
奈良県最大の墳長318mの前方後円墳・見瀬丸山古墳は、531年の辛亥の年に磯城で即位し、初めて大和に朝廷を開いた欽明天皇(ワカタケル王)の墓で、それを作らせたのは欽明天皇の息子で次の大王になったアメノタリシヒコ(=馬子=聖徳太子)です。
見瀬丸山古墳後円部
ウソ八百の『記紀』を信奉する学者さんたちは、稲荷山古墳から出土した鉄剣の銘文の「辛亥年」を471年だとし、ワカタケル王は雄略天皇だとしていますが、雄略天皇は架空の天皇であり、この「辛亥年」は531年でワカタケル王は506年に没した応神天皇の孫の欽明天皇なのです。この間の推理は複雑なので、「古代の地形から『記紀』の謎を解く」をご参照ください。
そして、欽明天皇の息子のアメノタリシヒコ(=馬子)の墓である飛鳥の石舞台古墳は、学者さんたちによって「上円下方墳」とされていますが、この古墳以降、巨大な前方後円墳は作られなくなったのですから、「薄葬令」を出したのは天智天皇ではなくアメノタリシヒコであり、天皇(王)や王族の墓の形が変わったのはアメノタリシヒコ(=馬子)が亡くなって桃原墓(石舞台古墳)が作られた622年以降なのです。
『上円下方墳』とされている石舞台古墳
石舞台古墳の石室
ですから、天皇墓にも匹敵するような石室を持つ宮地嶽古墳が前方後円墳ではなく円墳であるということは、宮地嶽古墳が作られたのは、石舞台古墳以降、つまり622年以降だということなのです(^o^)。