Quantcast
Channel: 歴史探訪
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1389

「金印・志賀島・安曇族」4

$
0
0
2018.6.2 「金印・志賀島・安曇族」4 
 
葛井真成という名前はどこかで見たような気がしたのですが、葛井寺でした。藤井寺市にある辛国神社は韓国神社のようだけれど、いったい誰を祀っているのだろう?と行ってみたら、すぐ隣に葛井寺があったのです。
 
イメージ 1

辛国神社
イメージ 2

イメージ 3

由緒
イメージ 4

祭神はニギハヤヒ・アメノコヤネ・スサノオになっていますが、アメノコヤネは室町時代に、スサノオは明治41年に合祀されたと記されていますから、もともとの祭神は、韓国(からくに・朝鮮半島)からやってきた天津族の王族のニギハヤヒですね。この神社は、この辺りを領地にしていたニギハヤヒの子孫が作った祖廟のようです。
 
この辺りは古市古墳群で、4世紀末に崇神天皇が東征してきた頃から、5世紀後半に余昆(後の応神天皇)が渡来してきて王族の墓が百舌鳥古墳群に移るまでの間の天津族の崇神系王族の古墳がたくさんありますから、その中にこの祖廟を作った一族のお墓もあるかもしれません。ちなみにこの古市古墳群の中にある墳丘長425mの誉田山古墳は、応神天皇陵ではなく崇神天皇陵であり、百舌鳥古墳群にある墳丘長525mの大山古墳が応神天皇陵です。
 
宮内庁は誉田山古墳を応神天皇陵、大山古墳を仁徳天皇陵として囲い込んでいますが、仁徳天皇は架空の天皇で、6世紀初めに築造された大山古墳が506年に亡くなった応神天皇の陵なのです。この年代は「古代の地形から『記紀』の謎を解く」の巻末の年表をご参照ください。

明治時代の宮内省の治定は、調査もしなければ検証もしない、全く根拠も整合性もない「ウソばっか」の治定なのですよね。架空の天皇にまで実際にある古墳を割り振っていますし<(_ _)>
 
辛国神社と葛井寺は古市古墳群のただなかにあり、近くにある小山善光寺を作ったのは、百済の最後の王であった義慈王(余義慈)の王子の余善光(=本田善光)なのです。その葛井寺に「遣唐留学生井真成(葛井真成)生誕之地」と記されていたのですから、葛井真成は天津族の王族だったのかもしれません。

イメージ 5

「井真成」というのは違和感があったのですが、ウィリアム・アダムスが日本では三浦按針になっているようなものなのでしょうね(^o^)。


実は、ここに行ったのは2012年だったのですが、大阪は初めてで、藤井寺球場の名前を聞いたことがあったくらいで、この時は葛井寺も葛井真成も本田善光も全く知りませんでした<(__)>。↑の表示を見て、「留学生葛井真成って誰なのだろう?後で調べてみよう」と思って写真を撮っておいたのですが、今日まで6年間すっかり忘れていました(^o^)。

 
 

Viewing all articles
Browse latest Browse all 1389

Trending Articles