2018.6.3 コメントへのお返事 余呉湖
同感です。北陸線に乗車し琵琶湖から余呉を通過する際の風景を思い出すに琵琶湖の成り立ちと関係があるのだと思います。(基は一緒)
昔から日本海と京都、大阪への重要なルートです。
木曽義仲、柴田勝家が天下を夢みて通った要衝の地ですね。
2018/6/2(土) 午後 10:55 [ takeshi ]
あの辺りの地形や風景をよくご存じなのですね。知らない人は「でたらめもでたらめ」と思うようですから(^o^)。
小説『等伯』は2012年に新聞に連載されていたのですが、小説に出てきた地名や地形が行ったことのない私には全く分かりませんでした<(_ _)>。そこであれこれ調べて推理してみた結果、琵琶湖と余呉湖は、かつては一続きの海だったようだと考えたのですが、
現在の地図を見るととてもそうは思えませんし、行ったことがないので実感もわきません<(_ _)>。その当時はプレートテクトニクスのプの字も知らなかったので、琵琶湖や余呉湖が本当に海だったと言い切る自信もありませんでしたしね(T_T)。
そこで、琵琶湖や余呉湖は本当に推理通りに海だったと言えるような地形なのかどうかを確かめてみたいと思い、2013年の5月の連休に米原から琵琶湖の東岸を、余呉湖を経由して敦賀まで行ってみました。その時の見聞録は、↓のあたりからブログの下のほうに少しずつ書き留めてあります。この時の見聞録は金ヶ崎まで行ったところで終わってしまっていますが<(_ _)>
この年は、世界遺産に登録されたばかりの富士山が、米原に向かう新幹線の窓からいつもより大きく見えていました(^o^)。
また小説では、等伯が七尾から船で京都に向かっていたことから邑知平野は当時水道だったのではないか?と考え、夏休みには能登半島へ行ってみたのですが、七尾城が畠山氏の城だったことを知ったのはその時のことたったのです。
能登では本当にいろいろなことが分かったので、能登探訪記は2013.8.21の↓から2013.12.31の「能登半島108」まで延々と書いていました(^o^)。それほどに面白かったのです。
108で終わったのは、能登での見聞が尽きたからではなく、まだまだいろいろあったのですが、考えが別の方向に行ってしまったからなのです。書ききれなかったことや書き忘れてしまったこともたくさんあるのですよね(T_T)。
穴水で見た海の美しさが印象的で、大相撲で「小結 遠藤 石川県穴水町出身」のアナウンスを聞くたびにあの海とボラ待ち櫓を思い出します(^o^)。
穴水の海とボラ待ち櫓