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「金印・志賀島・安曇族」3

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2018.6.1 「金印・志賀島・安曇族」3

 
昨日、テレビから「フジイさんというお名前は、渡来人の葛井氏が始まり・・・」という声が聞こえてきたので、葛井寺へ行ったとき、なぜこれはクズイでなくフジイなのだろう?と疑問に思ったことを思い出しました(^o^)
 
葛井(藤井)さんに限らず、縄文人も含めて日本人はみな渡来人なのですが(^o^)、「葛井の名を賜った」という場面を見たところ、この葛井氏は貴族だったようですね。
 
名をもらったということは、妹子が近江の小野の地をもらって「小野妹子」になったように、葛井の地をもらって「葛井真成」になったということなのかな?と思って「葛井真成」を調べてみたら、中国で734年に死去した日本人留学生「井真成」の墓誌が2004年に発見されていたのだそうです。
 
この「井真成」は717年の多治比真人県守を大使とする遣唐使とともに渡唐したようですが、この時代に留学生として渡唐することができたのであれば、この人はもともと貴族で、葛井を領地とする葛井氏の一族の「葛井真成」だったのでしょう。「小野妹子」は、隋では「蘇因高」と呼ばれていたようですから、「葛井真成」も唐では「井真成」と呼ばれていたのだろうと思います。
 
漢の武帝に使者を送った倭奴(伊都)国王も、魏に使者を送った卑弥呼も、聖徳太子(=アメノタリシヒコ=馬子)の国書を隋に持って行った小野妹子もみな渡来人であり、国書は漢字を使って漢文で書かれていて、使者は読み書きはもちろん中国語での会話にも不自由はなかったのです。空海が短期間で密教を極めることができたのも、もともと中国語の読み書きや会話に不自由がなかったからでしょう(^o^)
 
妹子は応神天皇の時に百済から招聘された和邇博士の子孫で、渡来人の天津族の王族であって、学者の家系のエリートだったのですから、中国語の読み書きも会話にも全く不自由はなかったのだろうと思います。
 
近江の小野で領主の「小野妹子」となった王族の妹子も、カミサマとして支配地の小野で「小野妹子神社」に祀られています。日本のカミサマは作り話のアマテラスや神功皇后などの架空の人物以外はみな実在したニンゲンなのです(^o^)
 
小野神社
イメージ 1

 
小野神社の中の妹子神社 
イメージ 2

実在したニンゲンですから、カミサマになった妹子にはちゃんとお墓もあります(^o^)
 
妹子のお墓・唐臼山古墳 
イメージ 3

 
ところで、長期政権と権力集中の弊害が出て、忖度やウソばかりで同じような経過を辿っていた国会と日大は、結果では大きな差が出てきているようです。日大の方は会見でウソをついていた人達は永久追放になり、トップの辞任要求にまで発展しているのですが、国会でウソをついた人たちは、みな無罪放免になったようです<(_ _)>

もう、「刑事訴追を受ける可能性がある」ということを拒否の理由にはできないわけですから、本当のことを言ってもらいたいものですが、絶対に言わずにほとぼりが冷めるのを待つのでしょうね。

キラウェア火山の活動はますます活発化しているようで、溶岩は60mの高さまで吹き上がっているそうです。西之島もずいぶん大きくなりましたが、ハワイ島も大きくなりつつあるようです<(_ _)>
 
 

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