2018.5.31 「金印・志賀島・安曇族」2
この「金印・志賀島・安曇族」には、やはり、金印に関しては発見者・発見場所などへの疑問や偽造説などがあって、謎とミステリーに包まれていることが記されていました。
「金印・志賀島・安曇族」
諸説の中には「壇ノ浦の合戦で破れた安徳天皇が筑前に逃げのび、志賀島に埋めた」というようなメチャクチャな説まであるようで、「歴史の考察というものは気楽な面もある」と記されていたのですが、これは自虐なのでしょうか?それとも「歴史の考察というもの」とはそういうもので、それでいいのだということなのでしょうか?私はその何の検証もしない非論理的で無責任な言いっぱなし書きっぱなしの「歴史の考察というもの」にずっと疑問を感じてきたのですが。
その極め付きは「金印が列島に来たことでわが国に漢字文化が始まったのだ」という説で、学者さんたちはみな口をそろえて「卑弥呼の時代まで日本には文字がなかった」と言ったり書いたりしているのですが、いったいなぜ、何を根拠にそう思い込んでいるのでしょうね?
「文字」は紀元前4千年頃からあったのですし、中国では古代の黄河文明の頃から漢字があり、中国の属国だった朝鮮半島では、15世紀にハングル文字が作られるまで漢字を使っていたのです。そして、弥生人というのはその中国や朝鮮半島から渡来してきた人たちなのですから、被支配者層の庶民はともかく、支配者層が漢字を知らなかったはずがありません。紀元前800年頃から渡来し始めた彼らは日本に王政を持ち込んで100余国を作っていたのですから、当然文字を持っていたし、漢字を使っていたのです。
中国という国があることや、その国に朝貢という制度があることをよく知っていたからこそ、彼らは中国に朝貢の使者を送って伊都国王や倭王に任じてもらい、その証として「漢倭奴国王」や「親魏倭王」の金印を授けられていたのですし、その使者は漢字で書かれた国書を持って行っていたはずです。文字もなく言葉も知らなかったとしたら、自分を王に任じてくれるようにと中国の皇帝に頼むこともできないではありませんか(^o^)。