2018.5.24 板付遺跡9 金隈(かねのくま)遺跡
連休に太宰府に行ってみようと思ってルートを調べていたら、空港の周辺にはたくさんの遺跡があるらしいことが分かってきたのですが、あちこち回っている時間はないので、空港の近くにあった板付遺跡と金隈遺跡に絞り、あとは福岡県埋蔵文化財センターに行ってどこにどんな遺跡があるのかをざっと見て資料を入手してくることにしました。
金隈遺跡というのはその時初めて知ったのですが、弥生時代前期から後期にかけての甕棺墓348基、土壙墓・基棺墓119基、石棺墓2基が出土しているとのことなので、「くれふしの里」や「一文字山(夢見ヶ崎)」のような「墓地の島」だったのかもしれないと考えたのですが、それ以上のことは分からなかったので行ってみることにしたのです。
学者さんたちは何が出たか、いくつ出たか、いつ頃のものか、というようなことにしか関心がないようで<(_ _)>、遺跡の説明で地形や標高などが書いてあるものはないので、自分で行ってみるしかないのですよね。
そこにある「金隈遺跡展示館」に行けば、どんな遺跡なのか詳しい説明や資料があるだろうと思ったのですが、なんと展示館は休館中だったうえ、外には古墳時代後期の石室の説明板が一つあっただけで、他にはこの遺跡や甕棺についての表示や説明は何もありませんでした(T_T)(T_T)(T_T)。埋蔵文化センターにもこの遺跡についての展示や資料はありませんでしたし。
金隈遺跡
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展示館があったのは、道からかなり上った丘陵の上で、西側は急斜面になっていて崖の下には平地が広がっていたので、やはり西側は玄界灘から続く海だったようだと思ったのですが、東側も低くなっていて大きな池があるようだったので、ここは細い舌状台地か島だったようです。おびただしい数の墓があったようですから、ここは「墓地の島」だったのかもしれません。標高を調べてみると35mありました。
丘陵の西側 崖の下には平地が続いています
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標高20~30mの台地や丘の端は、縄文時代後期~弥生時代には海際の陸地で貝塚や遺跡が多いところですから、ここに弥生時代前期から古墳時代にかけてのお墓がたくさんあるということは大いに納得できるのですが、これを見ても標高10mの板付に縄文時代の水田や弥生時代早期の遺跡があったはずはないのですよね。
「金隈遺跡展示館」は休館中で、ここでは何も分からなかったのでがっかりしてしまったのですが(T_T)、その後で行った福岡市博物館に甕棺の出土状況を示した模型がありました。
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これを見ると、やはり墓地の島だったのではないかと思うのですが、これらの甕棺は支石墓でも墳丘墓でもなく、直接土に埋められていたのでしょうか。
このところ、国会のモリ・カケ問題も悪質タックルの問題も、「ウソばっか」の場面が一日中流されているようですが、どちらも、最初にウソをついてしまったためににっちもさっちもいかなくなって、ウソにウソを重ねるしかなくなっているようです<(_ _)>。日大は日本で最初に「危機管理学部」を作ったのだそうですが、ここで教えているのは実際の役には立たない机上の空論なのでしょうか?