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板付遺跡6 住居跡

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2018.5.21 板付遺跡6 住居跡
 
大陸や朝鮮半島からの大勢の人が渡来してきたのは、激しい戦乱があったり国が滅亡したりした時のようですから、朝鮮半島から海を渡ってやって来て板付に集落を作った人々も、戦で国を追われたなど何らかの事情があったのではないでしょうか。板付遺跡が造られたのは、現在の「弥生時代早期の遺跡」という推定よりずっと遅く、朝鮮半島で何十もの部族の争いが続いていた三韓の時代(紀元前2世紀~4世紀)かもしれません。
 
韓国の松菊里の墓は支石墓だそうですが、福岡には支石墓もたくさんあるようですから、朝鮮半島からは無文土器時代の早い頃から弥生人が渡来し始めていたようですが、板付遺跡の甕棺は支石墓に埋められていたのでしょうか?それとも墳丘墓に埋められていたのでしょうか?北九州の支石墓は弥生時代前期のうちに消滅していたそうですし、板付遺跡の甕棺には青銅器入れられていたのですから、この遺跡は早くても無文土器時代中期以降の遺跡であって、支石墓ではなかっただろうと思うのですが。
 
板付遺跡は、標高から見ても、青銅器が出土していることから見ても、縄文時代晩期から弥生時代早期の遺跡ではなく、もっと後の時代のものなのではないでしょうか。
 
板付遺跡は江辻遺跡と同時期の遺跡で、江辻遺跡の住居は無紋土器時代の松菊里遺跡の住居と同じだということが板付遺跡を弥生時代早期のものであるとした根拠の一つのようですが、庶民の住居の形は、古墳時代や奈良時代になっても古代の竪穴住居とそれほど変わっていなかったようなのですけれどね~。

縄文前期の復元住居
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弥生早期の松菊里型住居
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紀伊風土記の丘にあった古墳時代の復元住居
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これも竪穴式の家ですし、素人目にはそれほど違いがないように見えるのですが。
 
↓の200年前(江戸時代)に建てられたという民家も、基本的にはあまり変わっていないようですし。
 
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 住居の変遷
 
高麗神社の1600年代に造られた高麗家住宅には床と天井が張ってありましたが、その頃床や天井を張ることができたのは身分のある人だけで、庶民の家は竪穴式住居の頃とあまり変わっていなかったのではないしょうか。
 

キラウェア山の火山活動はますます激しくなってきているようで、火山性地震も増えてきているようです<(__)>。

 
 
 

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