2018.5.18 コメントへのお返事 ミカホシノカカセオ
この地域の縄文系の民を駆逐したのが出雲系の勢力で、次に天津族(大和)系勢力のカカセオが出雲系勢力を駆逐したが、何らかの原因で同じ天津族の鹿島神社等に祭られている勢力に討たれたという事でしょうか?連休に笠間の石井神社を訪問しカカセオの存在を知りましたが葬られた歴史を探求しておられる貴殿の探求・探査のサイトにhitし興味を持ったしだいです。
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笠間の石井神社に行かれたのですね。茨城県内には他にも大甕倭文神社や静神社、草懸神社など多くの神社にその戦いの痕跡や伝承が残っています。『常陸国風土記』の記述から、日立の神峰神社がカカセオの最後の戦いの場だったのではないかと考えたのですが、これはまだ未踏査です。
それらの伝承や痕跡、『古事記』・『常陸国風土記』・『万葉集』・地域資料などにある記述、実地踏査による古代の地形の確認などを統合して「隠された本当の歴史」を推理してきたのがこのブログで、2010年までに分かったことをコンパクトにまとめたのが「古代の地形から『記紀』の謎を解く」なのですが、カカセオに関しては、第5章に簡単に入れてあります。
東征軍の将としてやって来たのはトヨキイリヒコ・タケミカヅチ・フツヌシ・ワケイカヅチらだったようですが、彼らが武力や戦略ではカカセオに勝つことができなかったために、新たに天津族から常陸に送り込まれてきたのが知将(?)のタケハヅチノミコトだったようで、その謀略によってカカセオは討ち取られ、今もなお大甕倭文神社で宿魂石に封じ込められてタケハヅチに見張られ続けており、香取神宮のフツヌシによって決して甦ることないように「星鎮め祭」が執り行われているのです。
タケミカヅチは東征後に那珂国造となり、死後は水戸市の愛宕山古墳に葬られ、子孫によって大井神社に神(氏の上)として祀られています。鹿島神宮は本来は中臣氏の祖廟で神主は中臣氏の子孫ですから、鹿島にはタケミカヅチのお墓はありません。
大井神社由緒
勢力関係はコメントのtakeshiさまのまとめより、もうちょっと複雑です(^o^)。弥生人が渡来してくるまで、旧石器時代から何万年かの間、日本列島に住んでいたのは北方経由でやってきたアイヌ人の先祖の縄文人や、南方経由でやってきた沖縄人・隼人族の先祖の縄文人だったのですが(これはDNAの解析やATLウィルスの追跡などから解明されています)、縄文人は文字を持たず、支配体制や身分制度というものは作りませんでした。
クニ(小部族国家)を作ったのは紀元前に渡来してきた弥生人(国津族)で、2世紀頃に渡来してきたスサノオの子孫(出雲族)がそれらのクニグニを大国主として緩やかに連合する体制を作ったようですが、『常陸国風土記』を読むと、その頃は縄文人と弥生人は共存していたようです。
その後、4世紀末になって天津族が東征してきて統一征服国家を作ったのですが、その征服の戦いに先立って、天津族は各々のクニに諜報員や工作員を送り込んで内部から切り崩していたようで、東国に送り込まれた工作員がカカセオだったようです。ところがその間の事情は分からないのですが、最終的にカカセオは国津族の側について東国の抵抗勢力を率いて天津族の東征軍と戦い、最後はタケハヅチノミコトの切り崩しと騙まし討ちによって裏切り者として天津族に殺されたということのようです。
『常陸国風土記』から察すると、天津族は縄文人たちを駆逐したり、騙して皆殺しにしたり、兵や奴隷として酷使したりと残虐な仕打ちをしていたようですから、カカセオはそれに対する憤りから反旗を翻すことになったのかもしれません(これは想像ですが)。
今日、キラウェア火山は噴煙が9000mも上がる爆発的噴火を起こしたそうです<(__)>。