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Channel: 歴史探訪
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板付遺跡4

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2018.5.17 板付遺跡4

 
この板付遺跡では、弥生時代の水田の下の地層から縄文時代の水田跡も見つかっているそうですが、その年代の推定に間違いはないのでしょうか?縄文時代晩期のここは、本当に人が住んだり水田を作ったりできるような土地だったのでしょうか?78世紀には標高5mの住吉神社の辺りは船の着く「那の津」であり、鎌倉時代(12世紀)になってもまだ海だったようなのですが。
 
鎌倉時代の絵図
イメージ 1

 
イメージ 2

標高や地形からは、板付遺跡の年代の説明は納得し難いのですが、これについては論理的な説明が見つかるまで、学者さんたちのように「・・・と考えればよい」というような非論理的なつじつま合わせを使って拙速に結論を出すことはせずに保留にしておこうと思います(^_-)
 
出かける前に「福岡の歴史と遺跡」で、「板付遺跡は縄文時代晩期から弥生時代にかけての遺跡で、日本で一番古い水田が発見されている」という説明を読んで、「え~っ、そうなのか!それなら空港から近いようだからついでにここにも行ってみよう」と思ったのですが、行ってみたら疑問だらけになってしまいました<(_ _)>。実際に現地を見る前は、学者さんたちの解説を何の疑問も持たず信じてしまったのですけれどね(^_-)
 
関東では、標高20mの洪積台地の下の10mの沖積地が湿地や陸地になったのは平安時代以降で、そのため関東に下向していた源氏や平氏の一族はそれらの土地の開拓地主として広大な土地と大きな財力を持つようになって、都には戻らずに開拓地に土着して勢力を広げていき、ついには平将門が「新皇」を名乗って朝廷軍と戦うほどの財力や兵力を持つほどになっていたのですよね。
 
もっともこの事件は一族の財産争いから発したもので、将門は天皇になろうとしたわけではなく、謀反は讒言によるテッチあげだったようですが、そんな讒言が信じられるほどの財力を持っていたということなのでしょう。
 
それはともかくとして、関東では古墳時代には標高10mの所は海だったのですから、もし東日本と西日本とでは潮位に差があったとしても、縄文時代晩期から弥生時代にかけての福岡で、標高10mの所に水田が作れるほど海面が下がっていたとは思えません。稲作ができたということは、土地から塩分が抜けていたということでしょうから、海面は10mより下がっていたはずですしね。
 
東日本と西日本では地形には確かに大きな違いがあって、関東(特に茨城・千葉)に多い洪積台地の端を指す「はなわ(塙・花輪)」という地名は西日本にはなく、そこに住んでいた「はなわ」という姓を持つ人も西日本にはいないようですが、海は繋がっているのですから、その地形の違いが同時期に10m以上もの潮位の差を生んでいたとは思えませんよね。
 
ところで善光寺の貫主に続いて、薬師寺の管主も辞任することになったようですが、このところの宗教界ってそんな話題ばかりですね~<(_ _)>
 
イメージ 3

 
貫主と管主はどう違うのだろう?と調べてみたら、貫主・管主・貫首は同じもののようで、延暦寺では座主(ざす)、園城(おんじよう)寺(三井寺)では長吏、東寺では長者、西大寺では長老、本願寺では法主(または門跡)、東大寺・興福寺・法隆寺では別当、日蓮宗諸本山では貫主(かんじゅ)(貫首)などいろいろな呼び方をしていたようですが、最近は管長と称することが多いくなっているそうです。



 

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