縄文時代には海だったと思われる標高10mの所に早い時期から縄文人が住んでいたとは思えなかったので、改めて板付遺跡について調べてみたところ、この遺跡を発掘したのも「鴻臚館は歴史学者さんたちの言う宮内町ではなく、平和台にあった」と論理的に推理した中山平次郎氏だったようです(^o^)。
Wikipediaには中山平次郎氏が「1916年(大正5年)に甕棺内から青銅製の矛や剣が出土したことを学会に報告していて、これが弥生土器に金属器がともなうことの初めての報告だった」と記されていましたから、板付遺跡には墓地や甕棺もあったのですね。
1950年(昭和25年)になって、在野の考古学研究者である中原志外顕(しげあき)氏が、ゴボウ畑を踏査中に、当時縄文土器とされていた晩期の夜臼式(柏崎式)土器(刻目突帯文土器)と弥生土器とされていた前期の板付式土器(板付Ⅰ式土器)を同時に採集したことから最古の弥生時代の遺跡である可能性が浮上したのだそうです。やはり出土した土器から縄文時代からの遺跡とされたようですね。
その後、「日本農耕文化の生成」の一環として発掘調査が行われて断面V字形の環濠や貯蔵穴、竪穴住居などが検出され、板付式土器などと共に石包丁などの大陸系磨製石器が出土したため、日本最古の環濠集落であることが確実となったのだそうです。
出土した土器は、縄文時代といっても前期や中期のものではなく、弥生時代に移行する最晩期のものだったようですが、以前は紀元前3世紀頃からとされていた弥生時代の始まりは、現在は紀元前10世紀くらいまで遡ると考えられているようです。DNAやY染色体の解析からは、弥生人が分岐したのが3300年前頃で、その弥生人が移動を開始したのが2800年前頃であることはすでに分かっているようですしね。
ひとくちに縄文時代、弥生時代といっても、縄文時代は万年単位、弥生時代は千年単位で続いていたのですから、草創期と晩期では地形にも人類史にも大きな差があってひとくくりにはできないのですよね。あるときを境に突然縄文時代が弥生時代に変わったわけでもありませんし(^o^)。
海面が高かった縄文時代の貝塚や遺跡は、関東平野では当時のウォーターフロントであった20m前後の洪積台地の端に並んでいるのですが、板付遺跡は平地で標高が10mしかなく、住居跡が復元されている場所も水田よりほんの少し高いだけだったので関東人の私には違和感があったのですが、西日本と東日本では潮位が大きく違っていたのでしょうか???
1950年の調査では検出された環濠の内の住居跡は、1970年の発掘では削平で失われていて確認できなかったため、現在復元されている竪穴住居は、江辻遺跡などの同時期の住居址を元に復元されたものだそうです。それでは実際の住居はどのくらいの高さにあったのか、どれくらい削られて今の高さになったのかは分かりませんが<(_ _)>、↓の写真を見ると、ここは島だったようにも見えますね。