向かいながら地形的に違和感のあった板付遺跡は、展示してあった↓の地図を見ても、航空写真を見ても、標高を見ても、縄文時代には海だったと思われ、ここに縄文時代から人が住んでいたとは思えなかったのですが、弥生時代に海面が7~8m以下に下がってからであれば、ここは遠浅の海に面した微高地のウォーターフロントで住みやすかったかもしれません。
地図
航空写真
環濠集落跡は水田の奥に見える2~3m高くなっている所にあったようです。
復元水田
けれど住居跡は環濠内では確認されなかったそうで、ここに復元(?)してある住居や貯蔵穴などは、同時期の粕屋町の「江辻遺跡」の発掘例を元に造ったものなのだそうですが、中央の炉の両脇に柱を配する南部朝鮮独自の竪穴住居で、韓国の松菊里遺跡で発見されたものと同じだそうですから、ここに住んでいた弥生人は、朝鮮半島から来た人たちだったようですね。
復元(?)されている住居
細かく見ている時間がなかったのですが<(_ _)>、骨組みだけの家があったのは、その「松菊里型」の構造を見せるためだったのですね。
学者さんたちはこの住居の作り方を「渡来人が伝えた」と言っていますが、日本人は全て渡来人なのですから、渡来人が日本人に伝えたのではなく、朝鮮半島からやって来た人たちが、ここで朝鮮半島にいた時と同じ暮らしを始めたのです。もしここに以前から縄文人が住んでいたのであれば、縄文人に伝えたか、縄文人がまねたかもしれませんが、その縄文人も旧石器時代にやって来た渡来人なのですよね(^o^)。
学者さんたちが、旧石器時代から日本列島にいた人たちを「日本人」、それ以降にやって来た人たちを「渡来人」と定義しているのかどうかは分かりませんが、その時代に国境はなかったのですし、「日本」という国号もまだなかったのですから、縄文人を「日本人」と呼ぶのはおかしいし、弥生人だけを「渡来人」と呼ぶのもおかしいと私は思います(^_-)。