鴻臚館は『日本書紀』には「筑紫館(つくしのむろつみ)とあり、後に鴻臚館と名称を変えて1091年頃まで存在していたそうです。
それでは鴻臚館の遺構が出たという平和台球場はどこにあったのか、そこにもぜひ行ってみたいと思ったのですが、「鴻臚館跡展示館」がある場所がその場所でした(^o^)。鴻臚館跡展示館は、出土した遺構を保護し発掘されたときの状況をそのまま見せるために造られた建物だったのです。
展示館の内部と遺構
展示館があるところが外野スタンドで、展示館の前にある↓の広場が「平和台球場」だったようです。
資料によれば、ここは博多湾に突き出した標高9m前後の丘陵上で、大きな谷を挟んだ南北の尾根を造成して北館と南館が造られ、谷は堀として使われていたようです。
7世紀後半の飛鳥時代に筑紫館(つくしのむろつみ)として、唐・新羅・渤海の使節を迎える迎賓館兼宿泊所や海外へ派遣される国使や留学僧らのための公的な宿泊所として造られた掘立柱の建物で、8世紀前半に建て替えられ、8世紀後半には礎石を用いた建物に建て替えられていたそうで、↑の図の黄色部分が飛鳥時代の掘立柱の建物の遺構、緑部分が奈良時代前期の遺構、ピンク部分が奈良時代後期~平安前期の遺構だそうです。
万葉集の「今よりは秋づきぬらしあしひきの 山松かげにひぐらし鳴きぬ」の歌は、天平8年(736年)に新羅へ派遣される遣新羅使がここで詠んだものだったのですね。
キラウェア火山の噴火はおさまらないようで、麓の住宅地で発生した噴火では、溶岩を噴出する割れ目で地面が南北に裂けるように広がり、東西に延びる割れ目を挟んで北側は北に約1m、南側は南に約1・5mと最大で計約2・5mずれ動いたことが分かったそうで、マグマが地面を押し広げながら上昇してきているようです。
ハワイ島は、ホットスポットの上にあるので噴火によって島が成長しているわけですが、世界的にマグマの活動が活発になってきているようですから、すぐには収まりそうもありませんね<(_ _)>。これまでに35棟が倒壊し、有毒ガスも検出されているようですが、この噴火は10~20年続くかもしれないとの見方もあるようです<(_ _)><(_ _)><(__)>。