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鴻臚館(こうろかん)5 

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2018.5.10 鴻臚館(こうろかん)5 
 
私が地形の変化ということを考えはじめたのは、古歌や風土記に記されている地形が今とは全く違うことに疑問を持ったからだったのですが、現地に行ってみると、古歌や風土記に記されている地形や情景は、その歌人や筆者が実際に見ていたその当時の地形や風景であって、1300年経つ間に地形や風景の方が変わってしまっていたのだということが分かって来ました。
 
例えば万葉集の巻頭にある
 
大和には群山あれどとりよろふ天の香具山登り立ち国見をすれば国原は煙立ち立つ海原はかまめ立ち立つうまし国そあきづ島大和の国は
 
という歌を、学者さんたちは「天の香具山から海は見えないのに謎だ」としていますが、この歌が作られた頃の奈良盆地はかもめが群れ飛ぶ海だったのですし、常陸の国司になった藤原不比等に随行した高橋虫麻呂が、8世紀の初め頃に筑波の歌垣で
 
鷲の住む 筑波の山の 裳羽服津の その津の上に 率ひて をとめをとこの行き集い かがふかがひに 人妻に 我も交はらむ 我が妻に 人も言問へ この山を うしはく神の 昔より 禁めぬ行事ぞ 今日のみは めぐしもな見そ事を咎むな (巻9-1759
 
と詠んだ頃、筑波山の麓は海で津があったのですし、
 
房総半島の鋸山から埼玉県行田市まで運ばれた房州石で古墳が造られ、
 
埼玉の津にをる船の風をいたみ 綱は絶ゆとも言(こと)な絶えそね (巻143380
 
の歌が詠まれた頃、さきたま神社やさきたま古墳群の下に広がる水田地帯は海で船の着く「津」だったのですし、平安時代に源俊頼が琵琶湖西岸の真野で
 
鶉(うずら)鳴く 真野の入江の浜風に 尾花波よる秋の夕暮れ
 
と詠んだ頃、真野は浜であり入り江だったのです。
 
歌人や風土記の筆者は、ありもしない風景を想像して記したわけではないのですよね。鴻臚館には「ひぐらしの鳴く山松かげ」が実際にあったのですし、当時の福岡平野は海だったのです。
 
絵師もまた同じで、浮世絵に描き込まれている海は、作者の想像や創作ではなく、実際にそこにあったのです(^o^)
 
東海道五十三次 神奈川宿 
イメージ 1

当時の地形のジオラマ
イメージ 2

 
現在の呉服町は海岸ではありませんが、中山平次郎氏が「鴻臚館がここにあったはずはない」と思われた時には海岸だったようですから、大正末頃にはその辺りが海岸でそれより先は昭和になってからの埋立地なのかもしれませんね。

蛇足ですが、学者さんたちが「我も交はらむ」として解釈している上記の虫麻呂の歌は「交はらむ」ではなく、「交らむ」だと私は思います。

 
 
 

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