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鴻臚館(こうろかん)4

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2018.5.9 鴻臚館(こうろかん)4 
 
私は官内町がどこにあるのか知らなかったので地図で調べてみたら、那珂川と牛頭川に挟まれた低地で標高は3mほどの所のようですから、鴻臚館が作られた飛鳥~平安時代には海の底ですね(^o^)。その2km先の住吉神社まで鎌倉時代には海だったのですから、その辺りが陸地化したのは江戸時代になってからなのではないでしょうか(^o^)
 
海に面して住吉神社が描かれている鎌倉時代の絵図
イメージ 1

ではなぜ歴史学者さんたちはそこに鴻臚館があったと考えたのだろう?と疑問に思ったのですが、旧官内町には「いにしえ太宰府の官人此処に来たりて守衛しければその館の有りし所を後世官内と名づけなるべし」と記された石碑があるようですから、「官内町」という地名からでしょうか?
 
この石碑が江戸以前からあったものなのか、江戸時代に「鴻臚館はここにあった」と考えた福岡藩の学者さんたちが作ったものなのかは分かりませんが、陸地化したのが鎌倉時代以降だったのであれば、湿地は公の建物が作られたり官人が住んだりするような土地ではありませんから、ここは水田になっていたのではないかと思います。この石碑が立てられたのは水田が埋め立てられて町が作られた江戸時代以降なのではないでしょうか(^o^)
 
さらに、この石碑に記されているのは「太宰府の官人が来ていた」ということであって、「外国からの使節が来ていた」ということではないようですし、守衛をするのは武官や兵であって、文官である官人は守衛などしなかっただろうと思うのですけれどね(^_-)
 
文献にしても金石文にしても、書いてあるからといって検証もせずに信じてはならないのです。どのようなオハナシでも作ることや書き残すことはできるのですし、もっともらしい解釈を付けることだってできるのですから(^o^)
 
実際に『記紀』は、ウソ八百の作り話を並べて架空のカミサマや天皇を何人も記していますし、本居宣長はそれを天上のカミサマの話だとする荒唐無稽な解釈書を世に出していますし、架空の人物である聖徳太子に関する伝奇や肖像や金石文はそれこそ山のようにありますし、架空の人物として天皇の系譜からすでに削除されている「神功皇后」が応神天皇を生んだという場所(宇美町)やおしめを換えたという場所(志免町)までありますし、宮内省は全ての架空の天皇のお墓として時代の合わない古墳を治定していますしね。
 
官内町という地名があり、その地名は「そこに太宰府の官人が来ていたから」という地名の由来(のようなもの)を記した石碑があったとしても、論理的に考えれば当時は海の底であり、鎌倉時代にもまだ海だった場所に鴻臚館があったはずはありませんし、実際にそこにはなかったのです(^o^)
 
江戸時代の博多は大部分がまだ海だったそうですから、奈良時代にひぐらしの鳴く「山松かげ」があったとすれば、福岡城のある丘陵地か、今は西公園になっている荒津山くらいだったと思われますが、荒津山は当時は波の荒い外海に面した小さな島(?)で、客館を置くような場所ではなかったようですから、海の近くで外国からの船が着けるような津があって、ひぐらしの鳴く「山松かげ」があり、外国の使節をもてなす客館を置くのにふさわしいような場所は、福岡城のあるこの丘陵地しかなかったようです。中山平次郎氏はそういったことを論理的に考えて鴻臚館あった場所を「平和台」と特定されたのでしょうね。
 
イメージ 2

 
上は現在の福岡市、下は奈良時代後期~平安時代の鴻臚館の想像図ですが、鴻臚館の先に描かれているのが荒津山(西公園)と湾入していた草香江(大濠公園)のようですね。
 
ところで昨日のニュースで、「スセンジ シメマチ」という言葉が聞こえてきたのですが、ちょうど行ってきたばかりだったので「周船寺・志免町」という文字がすぐに頭に浮かび、何か新しい発見があったのかな?と大急ぎでテレビを見たら、これは「周船寺のマンションで殺人事件があり、殺されたのは志免町の女性」というバッドニュースでした(T_T)
 
 
 
 
 
 

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