2018.5.4 金武古墳群4 デジャヴュ
夫婦塚古墳や装飾古墳のある道に立って古代には海だった福岡平野を見下ろしたとき、「ああ、同じ景色だ」という既視感がありました。金武古墳群の辺りから見た景色が、どのように奈良の山の辺の道の辺りから見た景色に似ていたかというと、
夫婦塚古墳から山側を見ると
山の辺の道から山側を見ると
夫婦塚古墳から海側(福岡平野・博多方向)を見ると
山の辺の道から古代の海側(奈良盆地方向)を見ると
山の辺の道に立って、背後の山から古代の海である奈良盆地に向かって緩やかに下っていく畑のほうを眺めたら、その先に建物で埋めつくされた奈良盆地が、振り返れば緩やかに山の方に上っていく道に沿って点在する家が見えていました。
奈良の写真は、2009年に初めて山の辺の道へ行ったときに撮った写真で、その頃はまだ今のようなことを考えていたわけではなかったので、太宰府と比べるような視点で写したものではないのですが、よく似ているでしょう?縄文時代~古墳時代の遺跡や古墳のある場所の地形は、本当によく似ているのですが、奈良と福岡は中でもよく似ていました。
この写真は、弥生時代の環濠集落のあった辺りの山の辺の道の景色で、山の方向は標識を写したので景色があまり入っていないのですが、良く似ていましたから、もし意識して写真を撮ったなら、どちらがどちらなのか分からないような写真になっていただろうと思います(^o^)。
「古代の地形から『記紀』の謎を解く」に書いたように、奈良盆地は4世紀末の天津族の東征の頃は海であり、万葉集の「大和には群山あれどとりよろふ天の香具山登り立ち国見をすれば国原は煙立ち立つ海原はかまめ立ち立つうまし国そあきづ島大和の国は」の歌から分かるように、古墳時代にもまだ海だったのです(^o^)。
現代人の住まいは、古墳時代には海だった奈良盆地の底や福岡平野に集中していて、標高100mの山の辺の道の周辺や、60~70mの金武古墳群の辺りには人も家も少なくなっていますが、縄文時代~古墳時代の遺跡や古墳がこの高さに集中しているのは、現在の平地や平野がまだなくて、そこが一番良い場所だったからなのですよね。
支配者や権力者は、いつでも一番良い所に自分の住まいを作り、町はその宮や城を中心に作られていくのです。山の辺の道の周辺にしても、金武古墳群の辺りにしても、そこに支配者の墓である古墳が集中しているなら、そこはその当時一番良い場所であり、その一帯の中心地だったのです(^o^)。