2018.4.27 太宰府へ
太宰府の水城や朝鮮式山城は、白村江で大敗した後、防衛のために天智天皇が造らせたものだとされていますが、これはおかしいと思いませんか?
戦は「都を落として王の首を取れば勝ち」ですよね。当時の都は奈良にあって王(天皇)は奈良にいたのですし、唐も新羅もそのことをよく知っていたはずですから、攻めて来るなら奈良であって太宰府のはずはありませんし、防衛のためなら、山城を造らなければならないのは都の周辺のはずですが、朝鮮式山城が造られたのは都からは遠い西の方ばかりのようです。
緊急事態なのに、肝心の都には防御施設を造らず、都からはるかに遠い所にばかり大掛かりな防御施設をいくつも造ったはずはありませんし、船でやって来る唐・新羅軍がわざわざ都から遠い山城を攻めるはずもありませんから、これも『日本書紀』のウソでしょう(^o^)。
「うそばっか」の作り話を並べている『記紀』を「正史」として信奉してやまない学者さんたちの歴史解釈は、それらのウソの恣意的なつじつま合わせばかりで納得できないので、私は自分で考えることにしたのですが、学者さんたちは、なぜ唐・新羅軍は太宰府を攻めるはずだと考えているのでしょうね?
唐・新羅軍が関門海峡を通って直接奈良に向かってしまえば大宰府の防御施設など何の役にも立たないわけですが、その可能性のほうがずっと大きかったのではないでしょうか?
・・・・だから、僕は歴史家には呆れ返るのさ。彼らときたら、一つの事態の納得性ということに関して何にも考えてみようとしないらしい。・・・・
でも防御のためではないとしたら、水城や山城は何のために太宰府に造られたのか、その理由や用途が分からなかったのですが<(_ _)>、このブログを始めた2009年に博多から有明海に続いている水田地帯が古代には水道だったことを知りました。
邪馬台国の時代には水深が10m以上あったこの水道は、海の後退などで四世紀末~五世紀前半には船の水路として使えなくなっていたようで、運河を掘削した痕跡が発見されているそうですし、有明海は最大で6mの潮位の変化があるそうですから、水城は防御のために天智天皇によって7世紀に急遽造られたものではなく、この水道を水路として使うために玄界灘と有明海の潮位の差を調整して船を通すための通船堀として造られたのではないかと推理したのですが、私は福岡に行ったことがなくて、水城が実際にはどんなものなのか2009年には全く分かりませんでした(T_T)。
通船堀とはパナマ運河のようなものなのですが、ちょうどその頃、埼玉県の見沼田んぼには江戸時代に作られた通船堀があることを知って、古代にも同じような仕組みを考えて造った人たちがいたのではないか、それは5~6世紀に大規模な土木工事をするだけの知識や技術を持ち、難波の堀江や茨田の堤などを造っていた秦氏の一族だったのではないかと考えたのです(^o^)。
通船堀とは
見沼田んぼも古代には古東京湾の一部であり、海だったのですよね。「見沼」という地名は、ここが沼や沼沢地だったことを示しているのです。
水城とは実際にはどういうものなのか、防御施設だったのか通船堀だったのか、「字(あざ)・大裏」や「字・紫宸殿」は太宰府のどこにあったのか、太宰府と都府楼は同じものなのか別のものなのか、いつか現地へ行って確かめてみたいと思っていたのですが、他にもいろいろと知りたいこと確かめたいことが増えてきたので、福岡に行ってみようと思います(^o^)。