十条富士塚の説明文には、富士講中興の祖・食行身禄の150周忌にあたる明治14年にこの富士塚が修復されたことが記されていますから、「明治初期に中里富士が富士講中によって築造された」というのは、やはり明治になってから造られたのではなく、明治14年に修復されたということのようですね(^o^)。
何事にも歴史学者さんたちが多用する「・・・とすればよい」というようなつじつま合わせではなく、ちゃんとした論理的な理由や根拠があるのですよね(^o^)。だからこそ、その因果を論理的に辿ることで本当の歴史を推理することができるのです\(^o^)/。
因果を論理的に辿ると、白子川沿いの台地の縁には諏訪神社や八坂神社や古墳がありますし、標高や地形から見ても縄文時代~2・3世紀には台地の下の白子川沿いの低地は海だったことが分かるのですが、その論理を理解できず「でたらめだ」と思われる方もいるようなので、その推理の裏づけになる物証はないかなと思ったら、地図に「吹上貝塚」の表示がありました\(^o^)/。
貝塚があるのならそこは台地の端で下は海だったはずですから、さっそくどんな場所なのか確かめに行ってみました(^o^)。
川越街道から白子川沿いを貝塚のある方向に走っていくと、左手にはずっと高台が続いているのが見えるのですが、その台地の端の旧川越街道が通っていた所にも、スサノオ一族を祀る「白子熊野神社」があり、やはり大きな富士塚がありました。
白子熊野神社の富士塚
富士塚の上から見た社殿
社殿があるのは中腹で、社殿の背後はさらに高くなっています。
その先の吹上貝塚に辿りついてみると、そこは台地の上の畑の中でした。台地の端と白子川は右手です。
この景色を見て、まさか埼玉県和光市のここが貝の豊富に採れる海辺だったなどとは思えないでしょうね(^o^)。でもここには縄文時代の住居跡や貝塚があって、シジミ・ハマグリ・カキなどの貝殻やスズキ・ボラなどの骨が出土していたのです。
ここには↑の説明板のほかには何もなかったのですが、土器や石器が出たと記されていたので畑の縁を探してみると、貝はありませんでしたが縄目模様のある小さな土器のカケラを一つ見つけました\(^o^)/。畑を耕した時に出てきた石器や土器のカケラなどは邪魔なので、よく畑の縁に除けてあるのですよね(^o^)。
近くには稲荷神社があり、神社の隣は小さな広場になっていて、神社の後方は造成中で、土が削られていました。
ここは入り江に面した台地の端で、近くには貝塚があって住居跡もあったのですから、この造成中のところにも遺跡があったのではないかと思いながら広場の横の小さな畑の縁を探してみたら、ここには縄目ではなく線描きの模様の入った小さな土器のカケラがありました。やはりこの辺りにも住居があったようです。
縄目模様と線描き模様の土器のカケラ
ここも白子川の方に落ち込む台地の端で、現在家やビルで埋め尽くされている斜面の下の平地は、縄文時代~2~3世紀には間違いなく海だったのです。