昨日の「富嶽三十六景 礫川雪の旦」で、「中景の流れは江戸川であろう」という解説を見て、牛天神から西のほうに江戸川が見えるはずはないと思ったのですが、「方向音痴のあなたでさえ気が付いたのに、それを書いた人が分からなかったはずはないんじゃないか?」と言われて、「確かに!」とおおいに納得してしまったので(^_^.)、どういうことなのだろう?と考えてみました。
現在の江戸川は、富士山とは逆方向の東京と千葉の境を流れていますから、富士山の方向に見えていたとすれば、それは牛天神の麓の入り江か目白台と淀橋台の間に入り込んでいた入り江なのではないか、と考えたのですが、ひょっとするとこの「江戸川」は神田川のことなのかもしれないと調べてみると、江戸時代には神田川の下流は「江戸川」と呼ばれていたことが分かりました。この解説の「江戸川」は現在の「神田川」のことのようです(^o^)。
現在の神田川は、三鷹の井の頭池から東へ流れ、台東区、中央区と墨田区の境界にある両国橋脇で隅田川に合流していますが、かつては平川と呼ばれていた川で、飯田橋付近から現在の日本橋川を通って日比谷入江に流れていたのだそうです。
その平川が江戸時代に何度も普請と瀬替えが行われて現在の流路になったのだそうですが、江戸市中に上水が引かれると上流は「神田上水」、下流は「江戸川」と呼ばれ、さらに神田山が開削されるとそこから下流は神田川と呼ばれるようになって、明治に神田上水が廃止された後は上流も神田川と呼ばれるようになり、昭和の河川法改正によって上流から下流までの全てが「神田川」になったのだそうです。
北斎が「富嶽三十六景 礫川雪の旦」を描いた頃、神田山より上流の牛天神から見える辺りでは、この川は「江戸川」と呼ばれていたのですね。でも、描かれている水の幅を見ると、川というよりまだ入り江だったのではないかと思うのですが。
地形や海面の高さも時代によって大きく変わっているのですが、川は人為的に流路が変えられていることが多く、名前も同じ川が時代や流域で違っていたりするので、一筋縄ではいかないのですよね<(_ _)>。荒川や利根川などは付け替えによって古代とは全く違う流路になっていますから、それぞれの時代にはなんという名前でどこを流れていたかを調べないと間違ってしまうのです。
たとえば、忍城の水攻めでは、石田光成が利根川の堤防を切ったことになっていますが、その当時の利根川はもっと西を流れていて、銚子ではなく江戸湾に注いでいたのですから、光成が堤防を切って水攻めに利用したのは利根川ではないのです(^o^)。
佐川氏の証人喚問が決まったようですが、改竄された文書では名前が消されていた平沼赳夫議員は日本会議国会議員懇談会の会長で、「神道政治連盟国会議員懇談会・みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」に所属し、鴻池祥肇議員も「日本会議国会議員懇談会・神道政治連盟国会議員懇談会・みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」に所属しています。
先日の前川氏の問題も根は同じなのではないかと思ったのですが
今日になって、やはり議員が関与していたことが分かったようです。名前の出た二人の議員は初めて聞いたので調べてみると、池田佳隆議員は日本会議国会議員懇談会事務局次長で、「神道政治連盟国会議員懇談会・みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」に所属し、赤池誠章議員も「日本会議国会議員懇談会・神道政治連盟国会議員懇談会・みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」に所属していて、林芳正大臣は「神道政治連盟国会議員懇談会」所属だそうです。
それらの会は全部同じ人たちがやっているのではないかと思っていたのですが、
やはりそうだったのですね<(_ _)>。彼らは「共謀罪」と名前を変えて「治安維持法」を成立させ、国家神道による思想教育や細かく検閲した道徳教科書で思想統制をし、教育内容に圧力をかけることで言論統制をし、全てを戦前に戻して同じ失敗を繰り返そうとしているのでしょうか<(_ _)>。