藤森神社には12柱のカミサマが祀られていましたが、
このうちの素戔嗚尊・別雷命・応神天皇・天武天皇・舎人親王・早良親王・伊予親王・井上内親王の8柱は実在した人ですから、後のニンゲンが過去のニンゲンをカミサマに仕立てたわけですし、日本尊・神功皇后・武内宿禰・仁徳天皇の4柱は『記紀』が創った架空のニンゲンですが、ニンゲンとして創られたのですから、やはりカミサマがニンゲンを作ったのではなく、ニンゲンがカミサマを作ったのです(^o^)。
ではなぜ舎人親王が「最古の学者」で「学問の祖神」なのかというと、正史とされる『日本書紀』の編纂をしたことになっているからなのですね。
古代史に謎があることを知ってその謎解きを始めてみたら、古代史が謎だらけになっているのは『記紀』がウソ八百の作り話の歴史を記しているからだということがだんだんに分かってきたのですが、その『日本書紀』を中心になって編纂したとされているのが天武天皇の皇子の舎人親王なのです。
日本の「作り話の歴史」は、『日本書紀』に先立って作られ、天津族の征服の歴史を「天のカミサマの国譲りのオハナシ」にすり替えた『古事記』の神話から始まっているのですが、それについては「古代の地形から『記紀』の謎を解く」の第3章「『古事記』の語る神話と実際の歴史の関係を推理する」をご参照ください。
日本の正史とされてきた『日本書紀』は、クーデター・壬申の乱で勝利して皇位に就いた天武天皇が構想し、息子の舎人親王が中心となって編纂したとされているため、舎人親王は藤森神社では「学問の祖神」として祀られているのです。
けれど、歴史書としての『日本書』を構想したのは確かに天武天皇だったようですが、その天武天皇が亡くなったのは668年で、『日本書紀』が完成したのはその52年後の720年なのですから、『日本書紀』は天武天皇が存命中に編纂されたものではなく、不比等が全ての権力を握った後に不比等の構想(意図)に沿って編纂されたものなのです。中心になって編纂したとされている舎人親王は、天武天皇が亡くなった時にはまだ10才だったのですから。
ところで舎人親王は天武天皇の皇子だったのに、なぜ貴人の使用人を意味する「舎人」という名前なのだろう?と疑問に思ったことはありませんか?私はずっと疑問に思っていたのですが・・・・
史書に記されている名前は本名ではなく、諡号にしても皇子・皇女の名前にしても、その名前や使われている文字には意味や理由があるのではないでしょうか。